JAPAN☆ALL STARS 認定者リスト

2010.9 過去の放送はこちら:
9/17 :: 6000人の命を拾い上げた助産婦 牧野幸江
昭和8年、京都に生まれた牧野は、人の助けになりたいと、22歳の時、京都第1赤十字病院に勤務。助産師の資格をとる。25歳で、キリスト教の修道会に入会。
“海外の人の役に立ちたい”という想いからシスターとなる。
そして、10年後、ようやく、牧野の元に海外赴任の話が。フランス、台湾そして3カ所目の赴任先がマダガスカルだった。貧困、栄養不足など、最も貧しい国と言われるマダガスカルでは、出産育児の環境が恵まれていない。人口の3分の2は、産院がない地方に住んでいる為、ほとんどが専門知識がない、村の産婆が手を貸している。また、栄養状態が悪い母親は、母乳の出がよくない為、充分な母乳が乳児に与えられない。離乳食に対する知識も全く持って知らない。このような状況で、マダガスカルの乳児は、9人に1人が死んでしまい、5歳未満の低体重児の割合が41、9%と世界でも類を見ない高さである。そんな状況を打破しようと、牧野はあらゆるチャレンジを試みている。
多い時には1日10件の出産を自ら手掛け、充分な知識がない妊婦達に対して、離乳食など出産育児の知識を教える「母親学級」や、マダガスカルでは高級と される粉ミルクの無料配給、白内障を初めとする乳児がかかる病気を食い止める為の予防接種の導入や、さらに産院がない地方への訪問看護など、丈夫な赤ちゃんを安心して埋める環境作りを目指している。
そして、17年間で述べ、6000人の命が牧野によって救われているー
9/17 :: 1万人の子供の命を救う医師 吉岡秀人
乳幼児の死亡率がアジアで最も高いとされるミャンマー。
そんな中、子供たちの治療を無償で行うのが日本人医師・吉岡秀人(45)。
テレビで見たアフリカの飢えた子供の姿に衝撃を受け、医者の道に。
29歳の時、初めて訪れたミャンマーで医者不足を痛感し、診療所を開く。
1日200人の患者をたった1人で診察し、日本なら専門医が必要な事例も、吉岡は独自で技術を学び、治療にあたった。
2003年に、お寺が経営していた病院を借り受け、さらなる治療に励む。
夏場は気温40度を超える手術室で懐中電灯の明かりを頼りに日に10件,年間1000件もの手術をこなす。これまで述べ、1万人以上の手術を手掛ける。そんな吉岡の病院には、噂を聞きつけ2日も3日もかけて訪ねてくる患者が絶えない。
2004年には医療ボランティア団体「ジャパン・ハート」を設立。
カンボジアでの医療技術指導や、看護師育成、2008年ミャンマーで起こった大型サイクロンの被災地での救援活動などその支援は多岐に渡る。
9/17 :: 101歳の医師 山崎 宏
日中戦争が始まった1937年、山崎さんは山東半島に軍属としてやってきた。
しかしそこで、中国人の生活を破壊する日本軍の振る舞いに耐えられなくなり、職を辞する。済南市で10年、鉄道員として暮らす。1945年、徴兵され河南省で終戦。
そこから1000キロの道のりを歩き、済南へ戻る。
その道中、敵国であった日本人の山崎さんに中国人たちは食べ物や着るものを与えた。
中国人の人情を受け、生き延びた山崎さんはこの地に留まることを決めた。
日本は中国の国民にあまりに多くの災難をもたらした。全力を尽くしてこの罪を償いたい。
その思いで、戦争が終わったばかりの60年以上前。中国で漢方医の資格を取り、済南市の郊外に診療所を開いた。
しかし、当初は日本人の医師に看てもらうことを恐れ、患者は誰も訪れなかったが、徐々に信頼されるようになり、地域医療に貢献。診察費や薬代は、他の病院に比べて破格に安い。山崎さんは貧しい患者からは治療費を取らない。戦争が終わってから30年後の1976年、中国と日本は国交正常化を果たし、この年に40年ぶりに故郷に帰っている。
済南市と和歌山市が1983年から取り組みはじめた姉妹都市の締結に、身銭を切って頻繁に2つの都市を往復した。孔子像を寄贈している。四川大地震の時には、赤十字に寄付金を送っている。そして、2010年8月3日には日中民間交流に貢献した功績などが認められ、日本の外務大臣賞を受賞。
中国の人からは、世界を救う100歳の医師として尊敬されている。
9/10 :: ペルー大使が母国に紹介したい日本人 料理人/松久信幸さん
世界10カ国以上に飲食店を展開する料理人、海外ではNOBUの名で親しまれている。俳優ロバート・デ・ニーロやジョルジオ・アルマーニともパートナーシップを組み、現在も世界中から数多くの出店オファーを受けている。松久の料理の特徴は、日本料理の技術と食材を基本に、西洋、特に南米ペルー料理の要素を取り入れた独創的なNOBUスタイルを築きあげた。フード業界でも全米ベストシェフ10人(Food & Wine紙)やNOBU Londonがミシュラン一つ星獲得と数々の評価を得ている。
9/10 :: モーリタニア大使が母国に紹介したい日本人 NGO代表/志賀あけ美さん
NPOセーブアフリカの代表・志賀あけ美。セーブアフリカは、1995年パリ・ダカールラリーに参加した日本人ドライバーたちによって設立された。きっかけは、レース中に現地でキャンプをしている時、モーリタニアの医療の厳しい現実、深刻な砂漠化を目の当たりにしたことだった。設立時からのメンバーである志賀さんは、モーリタニアで陸の孤島と化した砂漠奥地の町へ、医療物資を届ける活動を行っている。
9/10 :: コロンビア大使が母国に紹介したい日本人 花人/赤井勝さん
自らを「花人(かじん)」と称し、「装花」という独自のスタイルを築き上げた赤井勝さん。赤井さんのいう「装花」とは、形式にはこだわらず、 “自分らしさ”を花で表現すること。「装花の会」という駐日各国大使夫人へのフラワーレッスンをはじめ、「北海道洞爺湖サミット」などの政府 主催イベントで、「装花」を担当している。「装花の会」による功績が評価され、ローマ教皇・ベネディクト16世への謁見も実現した。
※コロンビア共和国のパトリシア・カルデナス・サンタマリア大使は、赤井勝さん以外にも下記の 日本人を推薦されています。
松久信幸さん(料理人) 榮久庵憲司さん(工業デザイナー) 三宅一生さん(ファッションデザイナー) 喜多郎さん(音楽家)
9/10 :: ブルガリア大使が母国に紹介したい日本人 日本初の女性代議士/園田天光光さん
終戦直後、焼け野原と化した東京で、天光光さんは飢餓に苦しむ人を目の当たりにし、現状の危機打開を街頭演説で呼びかける。そして「餓死防止同盟」なる草の根の団体を結成し、食料問題の解決に奔走した。46年には、男女普通選挙制度を採用した初の選挙で、衆議院議員に当選。日本初の女性代議士の一人となった。その後、ブルガリア大使夫人から、ヨーグルトの作り方を教わり、日本に最初にブルガリア・ヨーグルトを広めた人物としても知られている。ブルガリアとの関係は深く、以降も医療支援を行うなど、ブルガリア政府から外国人に与える最高の賞を天光光さんは授与された。
9/3 :: 青森の珍野菜生産者/藤森光枝さん
母・夫・息子と光枝さんの4人で農家を営む。
友人からもらった海外産の種がキッカケで『珍野菜』作りを始めた藤森さん。
トマトやにんにく栽培などの本業の傍ら、変わった形のかぼちゃ(トランペット)や、茹でるとそうめんの様にほぐれる瓜(そうめんかぼちゃ)など珍野菜作りに励む。農家の主婦ということもあり、ご飯の支度はスピードが勝負。収穫したての野菜を手際よく調理。藤森さんが作る、珍しくておいしい野菜が地元の人たちを笑顔にしている。

9/3 :: 群馬の珍野菜生産者/後藤明宏さん
幼稚園にあがる娘を田舎で育てたいと14年に地元・群馬に戻ってきた後藤さん。
そんな彼、実は東京でデザイン事務所を経営していた異色の経歴の持ち主だった
数年前に有機栽培で作った「舞茸」が有機JAS規格(野菜や米なら過去2年間以上、農薬や化学肥料を全く使っていない農地での栽培などの規格を満たした農産物・加工食品に有機JASマークを付す制度)を取得。これを気に、デザイナーから一転、農家としての道を踏み出した。「農業=アート」だという彼の野菜は「白なす」や「高山きゅうり」など見た目にも面白い「珍野菜」ばかり。
より自然の形に近づけようと栽培法にも徹底している。
9/3 :: 福岡の珍野菜生産者/久保田稔
元は久留米で農業をしていた稔さん。霜の害がない農地を求め、海沿いの糸島に定住し、大葉の栽培を始めた。
昭和60年頃アメリカの農場を視察した際にハーブを知り、帰国後すぐに栽培に取り掛かる。国内でもまだハーブが珍しい時代での挑戦だったが成功を収める。現在は9000坪の農園で栽培したハーブを全国16都府県に送っている。ハーブが成功を収めた数年前より、青ナスをはじめ、珍野菜を作り出す。冬にはカーボロネロ(黒キャベツ)、サボイキャベツ、アーティチョークなど珍野菜や西洋野菜を50種ほど栽培している。
そんな、久保田さんが教えてくれたすごい日本人は久留米に縁の人物らしい・・・

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