KIRIN~美の巨人たち~

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高村光太郎 「乙女の像」

最愛の妻・智恵子への永遠の愛を綴った詩集『智恵子抄』。その作者・高村光太郎が、智恵子への愛を渾身の思いで刻みつけた作品がもう一つあります。それは、彫刻家でもあった彼の生涯最大にして最後の大作。今日の作品は、高村光太郎作『乙女の像』です。十和田湖の湖畔に、左手を合わせて向かい合う2体の乙女像。その姿は、はちきれんばかりの生命力に満ちています。顔は智恵子をかたどりました。今日の作品は、光太郎が7年間の沈黙の末に作り上げた生涯最後の大作です。 光太郎は明治16年、明治彫刻界の大御所・高村光雲の息子として生まれました。父が教授をしていた東京美術学校彫刻科を卒業するとニューヨーク、ロンドン、パリへと留学。新しい彫刻の旗手ロダンに出会うと、単に似せるのではなく生命の本質に迫る彫刻を目指します。しかし、帰国後新しい芸術を日本に紹介しようと試みましたが、受け入れられず挫折。失意の日々を送っていた時、一人の女性と出会いました。

彼女の名は、長沼千恵子。平塚らいてふが出したこの国初の女性解放誌『青鞜』の表紙絵を描いた画家です。熱烈に光太郎の芸術論を支持する彼女の言葉は、自信を失っていた光太郎を勇気づけ、やがて理解は愛へと変わりました。大正3年に2人は結婚。智恵子という理解者を得て、光太郎の芸術にも磨きがかかりました。けれども、夫の偉大な才能を前にして智恵子の創作活動は止まり、心の支えにしていた実家も破産。やがて智恵子の精神に徐々に変調が起こり始めます。昭和6年に睡眠自殺を図って以来、智恵子の病状は次第に進行していき、ついには発病してから7年目にして智恵子は亡くなってしまいました。

そして、光太郎は東京から姿を消します。昭和20年の東京大空襲がアトリエや作品、智恵子との思い出の品を焼き払い、制作意欲さえ奪い去ったのです。被災した光太郎は、岩手花巻の宮澤賢治の遺族の元に身を寄せ、終戦後も花巻のさらに奥にあった粗末な小屋で、63歳から70歳までの間たった一人で暮らしました。何も作品を発表せず、農耕自炊の生活。しかし、光太郎はそんな生活の中で、ある決意を秘めていました。

昭和25年、光太郎に運命的な巡り合わせがやってきます。十和田の国立公園指定15周年を記念して、モニュメントを制作することになり、光太郎に白羽の矢が立てられたのです。十和田の自然の中をじっくりと歩いた光太郎はこう尋ねました。「裸像でもいいですか?」そして、関係者の了解を得るときっぱりとこう言いました。「智恵子をつくります」。そして、光太郎は異例の速さで今日の作品制作にあたるのです。しかし、何故彼は乙女を2体も作ったのでしょうか?そこには、光太郎の深い思いが込められていました。

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