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今日の一枚は、長谷川等伯作『松林図屏風』。国宝にして、水墨画の最高峰と呼ばれる六曲一双の屏風です。
右隻には、松林が二つぼんやりと描かれています。左隻には、うっすらと雪山が描かれ、こちらにも松林が二つ、ぼんやりと描かれています。松の描き方をよく見ると、激しい筆捌きで描かれていることがわかります。描かれているのはこれだけですが、圧巻なのは何も描かれていない広い余白部分。そこからは、たっぷりと湿気を含んだ大気が押し寄せてきます。霧か、もやか、霞か、その大気が白い光を放っています。何も描かずに世界を表現してしまうという奇跡が、この屏風の中で起きているのです。
この『松林図屏風』ですが、実は謎の多い屏風なのです。使われている紙に不思議な部分があり、右隻、左隻とも紙の継ぎ方がずれています。また、類似する絵が一枚もないことから、極めて稀な水墨画だとも言われています。なぜこの屏風は生まれたのでしょうか?一説によると、4人の人物の死が複雑に絡み合っていると言われているのです。

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能登半島の武家の家に生まれた長谷川等伯は、幼い頃に染物屋に養子に出され、絵心のある養父に絵を習ったと伝えられています。
絵師となった等伯は、30歳を過ぎて京の都を目指します。当時京の都で全盛を誇っていたのが狩野派です。織田信長、豊臣秀吉に仕え、豪華絢爛たる画風を確立した狩野永徳は、天下の絵師としてその名を轟かせていました。磐石たる狩野派の牙城に挑んだのが、等伯でした。

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1590年、千利休の後ろ盾を得た等伯は、造営中の御所内にある対屋の襖絵の仕事を許されます。しかし狩野永徳がそれを妨害。等伯は仕事を失います。その1ヶ月後、狩野永徳が亡くなりました。しかし、永徳の死から5ヶ月後、秀吉の逆鱗に触れた千利休が自ら命を断ち、等伯は大きな後ろ盾を失いました。利休の死から6ヶ月後に、秀吉の嫡男、鶴丸もまた亡くなります。鶴丸の御霊を弔うため、秀吉は祥雲寺を建立。その本堂の障壁画の制作に選ばれたのが、等伯でした。等伯は障壁画を見事に完成させ、都いちの絵師となります。しかしその後に、等伯の息子で同じく絵師の久蔵が26歳の若さで亡くなるのです。

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今日の一枚『松林図屏風』は、祥雲寺障壁画の制作と同時期に描かれたといわれています。松林と余白の間合いの微妙な構図のバランスを作り出しているのが、紙継ぎの妙です。ところが、紙継ぎの線に合わせて再構成すると、右隻も左隻もバランスが崩れてしまうのです。紙をずらして継ぎ、屏風にすることで、この絶妙な構図を作り上げているのです。なぜ等伯は、このような手の込んだことをしたのでしょうか。実は等伯以外の人物が、屏風に仕立て上げた可能性があるのです。

 
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