バックナンバー:

2004年4月3日 放送

 

絵の具と筆と鑿・・・。
芸術を生み出す為の道具。そこに全く新たな手法が加わったのは、十九世紀のことでした。
移り行く光をとらえる機械が発明されたのです。
見た儘の光景を寸分違わず銀盤に写し出す魔法の箱・・・、カメラ。
それさえ持てば、誰もがリアルな光景を手にすることが出来ました。
でも、それだけに写真はなかなか芸術として認められませんでした。
ただ記録する為だかの道具だと。
革命が起こったのは、カメラの誕生から百年も後の事でした。
場所は・・・、またしてもパリ。
印象派、キュビズム、フォービズム・・・、次々と近代美術の歴史を変えていったパリ。
時代の一瞬を切り取り、永遠に固定するのが、写真の力の一つとするならば、今日の一枚は正に一九二〇年代、あの頃のモンパルナスの空気を繋ぎとめたものでした。
あの頃・・・、あまりの科学の進歩に芸術が行き先を見失い、混乱していたあの頃・・・。
今日の一枚は、写真です。
マン・レイ作「アングルのヴァイオリン」。

モデルは、モンパルナスの人気者、キキ。
撮影当時、彼女は写真家と恋に堕ちていました。

たおやかに、くっきりと浮かび上がる見事なフォルム。そこに写真家が一筆添えたヴァイオリンのf字孔。それだけで、見る者の心を様々にかきたてます。
ユーモアと感じる人もいるでしょう。しかし、この写真には作者の生涯に渡る芸術との闘いが隠されていました。作者のマン・レイは、記録する為だけの手法だった写真を、芸術の域まで高めた男。
一九二一年、彼が突然パリに現れた時、その正体は謎に包まれていました。
「私を知れたければ、私の作品を見よ」
彼は、そう云います。しかし・・・、
彼の作品を見た者は、ますます頭を抱えました。鋲の出たアイロン、キュビズム風の油絵。マン・レイと云うその名前自体も本名ではないようでした。
謎の芸術家、マン・レイ。彼のアトリエを訪れたジャーナリストは、こう記しています。
「木、鉄、チェス、それに立方体、円錐形、ピラミッド型、渦巻き型のものに取り囲まれていた。それは、夢の小径へと続くなぞの入り口だった」




マン・レイは、自らの姿も数多く写真に残しました。
しかし、そのどれ一つとして笑っているものはありません。
髭を半分剃ったこの時でさえ、彼はカメラを睨み付けるばかり。わずかの感情も、出していないのです。
その人生も、感情も消し去ろうとしたマン・レイ。しかし、その無表情な仮面の下には、カメラに対する複雑な思いが隠されていました。
最高の技術とセンスを持った写真家。
ところが、彼はその写真を憎んでいたのです。
何故、素性を隠したのか?何故、写真を憎んだのか?伝統と新しい芸術がぶつかり合い、悲鳴を上げていたモンパルナスで生まれた一枚の写真。そこには、その全てが写されていました。
マン・レイ制作、「アングルのヴァイオリン」。
その謎を解く第一の鍵は、題名にあります。アングルとは一体何を指しているのか?
・・・実は、この写真は、ある作品をヒントに、捕られていました。
アングルの「トルコ風呂」。
中央左の後ろを向いた女性のポーズをマン・レイは意識しました。
これを描いたドミニク・アングルこそ、あのタイトルの主でした。
マン・レイは、自分より百年以上前に生まれた画家に、写真でオマージュを捧げていたのです。
一八九〇年、ニューヨーク生まれ。両親はロシア系ユダヤ人。本名、エマニュエル・ラドニツキー、それがマン・レイの正体でした。ニューヨークで芸術家を目指した青年・・・。
しかし、彼は、いきなり歴史の嵐に巻き込まれます。
一九一四年、第一次世界大戦勃発。人の幸せを導く筈であった科学が大量の命を奪って行く・・・。本当に科学を信じていいのか?人間そのものを信じていいのか?
そんな疑念を抱いた者たちが新しく起こした芸術運動、それがダダイズムでした。
既成の概念全てを破壊する。新しい芸術を目指していたマン・レイは、たちまちこの運動の先例を受け、ニューヨーク・ダダの旗手となります。
しかし、一九一六年に開いた個展は散々な結果に終わりました。
たった一つ救いがあるとすれば、この時、彼がはじめてカメラを使ったこと。
マン・レイはその卓越した能力を持っていました。でも、このときは作品を記録する為だけに使われたのです。



彼が海を渡ったのは、一九二一年、三一歳の時。目指すは、次々と新しい芸術が生まれていたパリ。この時から彼は、マン・レイと名乗り、それまでの過去を一切語らなくなりました。
そして、パリ到着のわずか三ヵ月後には個展を開きます。ダダの洗礼を受けた謎の芸術家、登場・・・。パリでは評判が評判を呼び、多くの芸術家や文化人が彼の個展に駆けつけました。この時、初日にやってきた音楽家、エリック・サティの為に、マン・レイが、急遽、金物屋に行き作った作品・・・、エリック・サティへの「贈り物」・でもこの作品にどんな意味があるのでしょうか?彼は、自分の作品について、こう云っています。
人を面白がらせ、うるさがらせ、困惑させ、煙にまき、考えさせようとしているのであって、ふつう芸術作品とされているオブジェに求められる技巧的なうまさを誉めてもらうつもりはない。
ニューヨークとは打って変わって、パリでは批評も好意的でした。
それでも、全く売れませんでした。
そんな彼の生活を助けたのがカメラの腕でした。
マン・レイは、芸術家としてよりも、写真家としてその名を挙げていったのです。
最大のお得意様は、伝説のドレス・デザイナー、ポール・ポワレ。
マン・レイのファッション写真は、やがて「ヴォーグ」グラビアを飾るようになり、そして、貴族や実業家、パリの著名人たちの多くが、ポートレートを撮って貰おうと、彼のアトリエにおしかけました。



そのカフェは今もパリにあります。
「ラ・ロトンド」。出逢いがあったのは、一九二四年のことでした。
その日、マン・レイが見たとてつもないお転婆娘。
娘は、何が気に入らなかったのか、給仕と大喧嘩すると、やおら椅子からテーブルに上り、その儘、店から出ていこうとしました。
その勢いに思わず声をかけたマン・レイ。娘は何の躊躇いもなく、彼の席に着いたと云います。モンバルナスの愛すべき人気者キキとマン・レイの恋の始まりでした。
恋多きパリジェンヌ、キキ。彼女は、その頃二十歳を過ぎたばかり。
キキは、パリの芸術家たちのアイドルでした。フジタ、モディリアーニ、キスリング・・・、多くの画家が彼女をモデルにパリの女を表そうとしました。もちろんマン・レイも・・・。そして今日の一枚、「アングルのヴァイオリン」が生まれたのです。
しかし、この頃マン・レイは、写真を憎んでいたのです。
何故、マン・レイは、愛する人、キキの背中をヴァイオリンに見立てたのでしょうか?
そのフォルムがヴァイオリンに似ていたせいでしょうか?
いいえ、そこにはマン・レイの複雑な思いが込められていたのです。
「アングルのヴァイオリン」、実はこのタイトル自体に、ある意味が隠されているのです。
マン・レイより百年ほど前の画家、アングル。彼には悪い癖がありました。
絵を見に来た人に、趣味だったヴァイオリンを必ず聴かせたのです。
絵を見に来たお客にとっては、全くはた迷惑な趣味・・・。
一方、写真家として成功したマン・レイにとって、事情は逆でした。
これまで絵画やオブジェを制作してきたのに、人々は写真の方ばかりを向き、彼の作品を殆ど見向きもしない。私の芸術とは、人迷惑な趣味なのか?
写真は生活費を稼ぐ手段に過ぎないのに。マン・レイはこの作品で人々に問いかけたのです。更に自分の写真はただの写真ではないことも主張しています。
この作品を、もう一度良く見てください。マン・レイが写真を芸術にしようとしていたことがわかります。ネガから焼いた写真に自ら手を加えたのです。
例えば、キキの顔や体のラインに沿って、マン・レイの入れた筆の跡があることが確認できます。・・・マン・レイは、写真で捕らえたキキの体を理想に近い形に修正していたのです。
ありの儘ではなく、理想の形・・・、それは正に芸術家としてのスタンスでした。
そして、彼は最後に印画紙の上からヴァイオリンのf字孔を描き込んだのです。
アラン・サイヤグ氏「写真家としてのマン・レイは、確かにリアリティを写す技に長けていました。しかし、彼は現像後に多くの修正を加えました。印画紙の上からデッサンしたり、体のラインを直したり・・・、彼の採ったネガと印画紙の焼いたものを比べてみると、全然違うのです。マン・レイはリアリティを撮った後に手を入れ、それを全く違うものに作り変えようとしていたのです。」ある写真家は「写真とはリアリティその儘を写したもの」と云い、だからマン・レイの撮ったものは写真ではないと云いました。確かに、マン・レイの作品は写真と云うより、絵に近いものだと云えるでしょう。
ファッション写真やポートレートなど、商業的な作品の人気が高まれば高まるほど、マン・レイは写真を毛嫌いするようになりました。
そして、遂に彼は、商業的な写真を一切撮らなくなります。




食っていけなくても写真を芸術作品にする。
マン・レイが挑んだ新たな表現方法レイヨグラフ。
レイヨグラフとは、印画紙の上に物を置いたりして、云わば日光写真の原理で、直接物体の影を焼き付けたもの。マン・レイは、絵筆のように光を道具として使い、印画紙の上に全く新しい絵を書き出したのです。その誇らしさを彼はある手紙にこう記しています。
「私はついに、厄介な絵の具という媒体から自由になりました。今は直に光を扱っています。光を記録する方法を、発見したのです。私の新しい手法ほど、主題が実物に近いものはありません」
アラン・サイヤグ氏
「マン・レイは、写真の技術を用いて、全く新しい芸術を生み出したのです。全く革命的な手法でした。」
自由奔放なキキが、六年間暮らしたマン・レイの元から去ったのは一九二九年のことでした。
その時、キキとの別れを悲観して、彼はこんなセルフ・ポートレートを撮っています。
首に縄を巻き、手にピストルを持った「自殺志願」。彼は、新しい芸術の為の道具、カメラを使い、自らの人生まで作品にしたのです。
マン・レイは、カメラを「人間の手が追いつくのを待っている」道具と呼び。「何を撮るべきかではなく、如何に撮るべきか」ばかりに拘っている写真家を痛烈に批判しました。
そして、写真の未来について、こう語りました。
マン・レイ「ワインも新しいうちは酸っぱいが、年を経るうちにまろやかな味になっていく。
それと同じように、写真も初めは単なる技術に過ぎないが、やがては本物の芸術になるのだろう」
富よりも名声よりも芸術を取った男。そして、何より、写真を芸術にまで高めた男・・・、彼の若き日の熱き思いが、一枚の写真に焼き付けられています。
写真の革命家マン・レイが抱いていた芸術への焦り・・・、しかし、彼はアングルのこんなエピソードを知っていたのでしょうか。
世界で最初の写真が発表された一八三九年、目の前の光景がその儘映し出された銀盤を見て当時の画家達は絶望し、「画家を脅かす写真は即刻禁止せよ」と抗議のデモまで起こしました。そのデモの先頭に立っていたのが、マン・レイの愛したアングルだったのです。
しかし、そのアングルの作品も、写真に絶望しながら革命を起こしたマン・レイの作品も現在に残っています。芸術とは、ジャンルでも手法でもなく、そこに込められた作者の思い・・・。

八〇歳を過ぎても既成の芸術に挑み続けた永遠の反逆者マン・レイ晩年のメッセージです。
マン・レイ「歴史に戸を閉ざすことはできない。歴史は戸を蹴破っても侵入してくるからだ。時流に乗らなければならない。いや、それ以上に歴史を先取りしなければならない。ゆっくり歩いてはいけない。走って歴史を迎えに行け」

・・・走って歴史を迎えに行け!
「アングルのヴァイオリン」。
写真に芸術という命を与えたマン・レイの一枚。

   
マン・レイ「アングルのヴァイオリン」

↑Top