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2004年6月26日 放送

 

ウィーンへ、ようこそ。 六百年前からそびえるシュテファン寺院をはじめ、歴史ある建物があなたを魅了してくれます。 ヨーロッパのなかでも、伝統文化の香りを色濃く残す街です。
えっ!古くさいって? そんな先入観に、どうかとらわれないで下さい。さあ、ウィーン名物、路面電車にどうぞ。 新しい名所へとご案内しましょう。 格調高い町並みが続きますが、町外れまでお付き合いください。 中心部からウィーン川をこえて、下町の方へ。ほら!この建物です!これが今日の作品・・・。おっと!通り過ぎてしまいました! では、戻ってみましょう・・・。えっ?まだなんだかわからない? じゃあ、降りて見に行きましょう。ウィーンに作られた、一人の画家の理想郷・・・。
今日の作品、フンデルトヴァッサー作、「フンデルトヴァッサー・ハウス」。
テラスや屋根から木や草が生えています。そして屋上には、王冠のようなタマネギタワーが・・・。
今は木々が生い茂り、見えにくい部分もあるので、完成当時の姿をどうぞ・・・。
大分印象が違うでしょう。
建物を彩る、鮮やかな色彩。それはまるでパッチワークのよう。 おとぎの国にありそうな、この建物・・・。
でも、いま流行のテーマパークではありません。 一般の人が見ることができるのは、実はこの広場まで・・・。 
でも、今日は特別です。
中へとご案内しましょう。
そこは飴細工のようなカラフルな柱がある、洞窟のような空間。 
一寸、見てください。壁が波打っています。
そして床までも、曲がりくねっています。
慣れていない人は、躓くかもしれません。
壁のカラフルなタイルを見れば、床がいかにうねっているかが、判ります。
目を見張るのは、それだけではありません。
壁を彩る、遊び心溢れたモザイク画。
色彩と曲線に溢れたこの空間。
 実はここ、20年ほど前に完成した、50世帯が住む、市営の集合住宅なのです。 作ったのは、この人。 
本名、フリートリッヒ・シュトヴァッサー。
彼は芸術家として生きる意志を固めた21歳の時、雅号をフンデルトヴァッサーとしました。
オーストリアでは、誰もが知っている、有名な建築家。実は彼、元々画家です。 鮮やかな色彩がキャンバスに渦巻く、抽象画の奇才。
しかし、その情熱は、小さなキャンバスには、収まりきらなかったのです。
アトリエを抜け出し、自らの芸術を、現実世界に築こうとしたのです。鮮やかな色彩と、この曲がった、定規を使って・・・。




リベラルなことで有名だった当時の市長から、集合住宅の依頼を、フンデルトヴァッサーが受けたのは、1977年。しかし、その着工は、多くの反対を受け、遅れに遅れます。
それもそのはず。それまでの住宅ではあり得ない色彩と曲線が、彼のプランの中に渦巻いていたからです。
依頼を受けてから完成まで、実に9年かかったフンデルトヴァッサー・ハウス。
これこそ一人の画家の、人生と芸術の結晶・・・。



ここはウィーンではありません。でも彼の作品に出会えます。「子供の街」。四階と五階のツーフロアを吹き抜けにして作られた遊戯施設です。
鮮やかな色彩と曲線が踊る、フンデルトヴァッサーらしい空間。
大阪市には、もう一つ彼の作品があります。ここは遊び場ではなく、市営のゴミ焼却所。焼却所なのに、明るく楽しいデザイン。窓からは、緑も見えます。
彼が初めて本格的に取り組んだ建物が、自らの名前が付けられた、このフンデルトヴァッサー・ハウスです。 
彼ならではの空間は、この噴水の上の、アーチ部分。中はこうなっています。
床全体が滑り台となった、子供のためのプレイルーム。では、それぞれの部屋も、曲がりくねっているのでしょうか?
 ここに18年住む、クラウスさんの部屋を訪ねてみましょう。
「さあ、どうぞ・・・どうぞ入ってください。」
さすがに内部は、壁も床も曲がっていません。それでも、角は直角ではありません。
敢えてその部分を削り取ってしまったようです。
バスルームの壁のタイルは、やはり曲がっていました。なかには割れているようなものまで・・・。
「ダイニングルームは、この小さな窓だけしかありませんでした。そこで私はここに大きな窓を作ったのです。フンデルトヴァッサーは、住民が窓を自由に作ることを、勧めていたのです。」
窓を作る自由だけではありません。彼は壁にも自由に絵を描くよう、勧めたのです。
前代未聞の市営住宅、フンデルトヴァッサー・ハウス。やはりウィーン市は渋りました・・・。 6年間も・・・。建築家、フンデルトヴァッサー。
その原点とは?




フンデルトヴァッサーは、1928年にウィーンで生まれました。 父は、オーストリア人。 母は、ユダヤ系チェコ人でした。 父親は、彼が生まれてすぐ亡くなりましたが、息子に素晴らしいものを残しました。 後に彼はこう言っています。 「画家になった動機はとても単純です・・・切手のような綺麗なものを作りたいと考えたからです。 それから花に目を向け、花を集め始めました。 押し花にすると、色がさめてしまうので、いつまでも本物のように見えるために、それらを描いた方がいいと思いました。」
「色とかたちに対する並はずれたセンスあり」 すでに小学校の教師は、彼の才能を認めていました。 色彩とフォルムの美しさを、草花から学んだ少年は、やがて画家を目指します・・・。
 しかし、ウィーンの美術学校を三ヶ月で、パリの学校にいたっては、たった一日で飛び出してしまう・・・。
そして・・・  辿り着いたのが、渦巻き・・・。

フンデルトヴァッサー・ハウスからほど近い、クンストハウス。 別名、フンデルトヴァッサー美術館。 ここには彼の初期の作品が、展示されています。 15歳の時、まだ見たままの色と形を描いていた頃・・・。 「彼が渦巻きを描くようになったきっかけは、25歳の時に見た精神病院のドキュメンタリー映画です。 その中である患者が描いていた渦巻きを見て、これこそが人間が素直に発散する形ではないかと、彼は考えたのです。」
「そして彼は、人間の行動も曲がりくねりながら、ぐるぐると巡っていると考えたのです。彼の渦巻きの世界は、それを表現したものなのです。 逆に彼は、定規で引いた直線を、非人間的なものとみなし、激しく敵視していました。」

1961年に、日本で初めて個展を開いた時、彼はパンフレットに次のような激しい一文を掲載します。 「束縛されるな、追随するな、定規で引いたものには不信を 直線は胸に抱くな、自由であれ、そうすれば何者にも脅かされぬであろう」
直線・・・それは彼にとって、自由を奪い去るもの・・・。 
1938年、彼が10歳の時、オーストリアはナチスドイツに併合。 ユダヤ人であった母方の親戚は、74人のうち69人までが、ガス室に送られたのです。 そんななか母親は、息子を、ヒトラーの少年親衛隊に加入させます。 それは、ユダヤ系の母親が、息子を守るために取った苦肉の策でした。 他人からあてがわれた、直線的な教育や生き方・・・。 そこには行動の自由も、思想の自由もない・・・。 有るのはまやかしと、悲劇だけ・・・。
「直線は胸に抱くな・・・!」彼はまるで、失われた青春時代を取り戻すかのように、直線を敵視したのです。 
フンデルトヴァッサー・ハウスの壁や床を飾るモザイク画。 これは彼自身のデザインではありません。 この建築に携わった人々が、自由に作ったもの。 彼の理想郷。 そこには、住む人や作る人の自由がある。 しかし、求めたものはそれだけではありません。 
彼はこう呼ばれました。 5枚の皮膚を持った、画家王と・・・。




小さな田舎町の、簡素な教会。 それが彼の手にかかると、こうなります。まるでお菓子の家。 ウィーンから南西へおよそ200キロ離れた、ベルンバッハにある聖バルバラ教会です。 
そのステンドグラスは、色鮮やかな渦巻き。 無機質で冷たい感じの施設を、彼の目は断じて許しませんでした。 ゴミを焼却し、そのエネルギーを活用する、シュピッテラウ遠隔暖房施設。 今ではここも、ウィーンの新名所の一つ。
「この施設は当時の最高の技術を使っているので、ここから出されるダイオキシンの量は、ゼロに近いのです。 それはフンデルトヴァッサーとの約束でした。 彼は言いました。 けして自然環境を破壊するような、施設を作ってはいけないとね。」
曲がった定規と鮮やかな色彩で、独自の建築を目指したフンデルトヴァッサー。彼の哲学・・・「人間は何枚もの皮膚を持っている」第一は、実際の皮膚。 第二の皮膚は衣服。 そして第三の皮膚は住居。
1967年。 彼がまだ世界的にはほとんど無名だった頃、思いも寄らぬ行動を起こし、周囲を驚かせます。第三の皮膚の権利を求める、裸のスピーチ。
「あらゆるものが定規で仕切られた惨めな状態にあり、あらゆる人が刑務所に閉じこめられている・・・」 敢えて第二の皮膚である衣服を脱ぎ去り、第三の皮膚である住居の危機を訴えたのです。
 「衣服も住居も、人間を包む皮膚として考えた彼は、そこに自由がなくてはならず、それ自体が病んではならないと、強く主張していました。 そして彼にとって、更にそれらを包む二つの皮膚がありました。 第四の皮膚は社会環境。 そして第五の皮膚は、地球環境です。 社会は人間を拘束してはいけない、 そして地球環境を、ないがしろにしてはならない。 彼は常にそう訴えたのです。」 

今日の作品、フンデルトヴァッサー・ハウスを見て下さい。 まるで建物の一部のように、木々が宿っています。 屋上に行けば、よりはっきりとわかります。 地球環境さえも皮膚感覚で捉えた彼だからこそ出来た、自然と共生する住宅・・・。
彼は言います。 「木は酸素で、埃を吸収する力で・・・、その美しさで、その他多くの利点で、家賃を払います。 これは人間が小切手で支払う額より多いのです。」
1973年。 ミラノのアパートに、彼は12本の木を住まわせ、それを実証してみせたのです。
こうした彼の活動を、長年サポートしてきたヨーラム・ハーレルさん。
「彼とは1972年からの付き合いで、あの集合住宅を計画した時も、私は彼とともに市と交渉をしていました。」
 「彼は常に自分の考えを行動に移す強い執念の持ち主でした。決して諦めず、社会に自分の思想を訴え続け、それに伴う行動を起こし続けました。 だからこそあの集合住宅は完成したのです。」

ウィーンにいらっしゃい。 ここは新しい芸術に触れることが出来る街。 私達を取り巻く全てが皮膚であると考えた、画家の純粋な思いが、ここには結実しています。
フンデルトヴァッサー・ハウス。
自然を愛し、渦巻きを愛した画家が築いた、色鮮やかな、自由の砦。



   
フンデルトヴァッサー 「フンデルトヴァッサーハウス」

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