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2004年7月3日 放送

 

イタリア・ローマ。その一角に、世界一小さな国があります。
テヴェレ川のほとりから見えてきたのは、カトリックの総本山、ヴァチカン市国のサンピエトロ寺院です。 広さ44ヘクタール。皇居の半分にも満たないこの国は。しかし、世界に十億人を数えるキリスト教徒の精神的支柱です。 世界中から、多くの人が押し寄せる、小さくて大きな国。 そしてここは、世界一の芸術の都でもあります。 第一級の芸術品が、これほど一箇所に集中している場所は他にありません。 ひとつひとつの作品に目を向ければ、見学するだけで何日もかかってしまうことでしょう。
それもそのはず、ここには、ボッティチェリ、ミケランジェロ、そしてラファエロと言った、時を経ても色褪せる事のない本物の芸術家たちが集っていたのです。
では1400もあると言われる、部屋のひとつにご案内しましょう。
「署名の間」。
ここに、ヴァチカンの数ある芸術品のなかでも、最高傑作のひとつがあります。それはこの部屋の、壁画の一角を飾るフレスコ画です。
今日の一枚。
ラファエロ・サンツィオ作、『アテネの学堂』。幅8メートルもある壁画には、50名を越える古代ギリシャの賢人たちの姿が描かれています。 遠近法で描かれたアテネの学堂、その中心に位置する二人は、向って左がプラトン、右がアリストテレス。そのほかソクラテスやピタゴラスなど、有名な哲学者や科学者たちが、理想の学び舎に集っています。
ギリシャの人々に、知識を披露する天才たち。画面右隅に目をやると、そこには数学の先駆者の姿もあります。幾何学で有名なユークリッド。 コンパスを片手に屈んでいるユークリッドを描くとき、ラファエロがモデルにした人物がいます。
その人が今日の案内人です。名前はドナート・ブラマンテ。 ルネサンス期を代表する建築家です。当時彼は、教皇ユリウス2世の命を受け、ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂の再建を任されていました。 この時、ブラマンテは嫉妬に燃えていました。相手は、教皇の信頼厚いミケランジェロです。 その歪んだ感情が、わずか25歳のラファエロに、ヴァチカンで仕事をするチャンスを与えることになるのです。
これは、ラファエロが『アテネの学堂』を描くために用意した下絵です。しかし、実際の作品と大きく違うところがあります。下絵にない人物が実際の絵には描き加えられているのです。お解りですか?
そこには、ラファエロとミケランジェロという二人の天才を巻き込んだ、ある企てが隠されていたのです。
ヴァチカン市国の入口、サンピエトロ広場です。30万人を収容できる広大なスケール。広場を取り巻く回廊の上には、一体、3メートル以上ある140人もの聖人が、立ち並んでいます。
ここヴァチカンは、まるで巨大な磁石のように、世界から様々な芸術品と、それを生み出す才能を引き寄せた時代がありました。「ルネサンス」

特に16世紀初頭、十年間にわたり教皇の座についたユリウス2世は最大のパトロンでした。
ここはユリウス2世が、図書館兼書斎として使っていた部屋です。書類に署名や捺印をしていたことから、『署名の間』と呼ばれています。 ここの壁画をまかされたのがラファエロ・サンツィオでした。彼は形も大きさも違う部屋の四つの壁面に、「神学」、「法学」、そして「詩学」。
更に今日の一枚『アテネの学堂』を、「哲学」を現すフレスコ画として描いたのです。




ラファエロが『署名の間』に壁画を描くようにという依頼を受けた時、そのすぐ隣りの「システィーナ礼拝堂」では、すでにミケランジェロが、天井画の製作に着手していました。
隣り合わせの建物。距離にしてわずか、2,30メートルしか離れていない場所で、ラファエロとミケランジェロという二人の天才が、同時に作品に取り組むことになったのです。
ラファエロとブラマンテは同郷であり、遠い親戚でした。二人の出身地は、イタリア中部の町・ウルビーノです。 この町を治めていたモンテフェトロ家は、芸術家のパトロンとして知られており、各地から才能ある人を、ウルビーノに招いたのです。これはラファエロが15歳のときに描いたと言われる聖母子像。 父親が宮廷画家だったラファエロは、子供の頃から上流階級の人たちと接する機会を得、様々な画家たちから新しい技法を吸収して育ちました。
ペルージャの工房で修行を積んだあと、22歳でフィレンツェに出たラファエロは、その気品ある画風と、持ち前の人当たりの良さで、一気に売れっ子の画家になります。
特に彼の描く聖母子像は人気が高く、評判を呼びました。それは、当時フィレンツェで活躍していた、レオナルド・ダ・ヴィンチの技法を学んだ成果だったのです。
ところで、このダヴィンチの顔。気難しそうでいて、知性に溢れた顔。
どこかで見覚えありませんか? この顔が、「アテネの学堂」のなかに居るのです。 中央で天を指ししめしているプラトン。 このモデルこそがレオナルド・ダ・ヴィンチだったのです。何故なのでしょうか?
研究者「ラファエロがプラトンのモデルに、ダヴィンチを選んだのには訳があります。二人に、共通する偉大な功績です。 プラトンは新しい哲学の先駆者であり、ダヴィンチもまた、美術の歴史を変えた人物です。 それとラファエロ自身がダヴィンチを高く評価し、尊敬していたということもあるでしょう。 ラファエロは下絵の段階から、プラトンの顔を、ダヴィンチそっくりに描いています。 彼には、あの絵の中心的存在であるプラトンは、ダヴィンチ以外考えられなかったんじゃないでしょうか」

ある日ブラマンテは、ラファエロをミケランジェロのいないシスティーナ礼拝堂に、連れて行ったのです。 そこでラファエロが見たものとは?




ある時ラファエロは、ブラマンテの手引によって、ミケランジェロが描いていたシスティーナ礼拝堂の天井画を見ることになります。 
そこでラファエロが目にしたのが、この光景でした。
そこには、聖書に基づく壮大なキリスト教の世界が、鮮やかに力強いタッチで描かれていたのです。縦13メートル、横36メートル。天井画に登場する人物は、300人。その一つ一つが細部に至るまで、見事な出来だったのです。 このおそらく世界最大の天井画を、ミケランジェロは、ほとんど一人で仕上げようとしていました。
ラファエロが覗き見たとき、作品はまだ完成に遠く及ばない状態でしたが、それでも打ちのめされるのには、充分な迫力と見事な出来を誇っていたのです。 一人の人間の成せる業とは思えない作品。 この時受けた衝撃が、ラファエロの中に、確かな変化を生んだのです。
ラファエロの受けた衝撃の強さを知るヒントが、この下絵の中に隠されています。 当初ラファエロは、中央階段部分を広く開ける構図を考えていました。 しかし実際の作品はこうなります。
そう、当初予定していなかった人物が、そこに描かれたのです。 右手にペンを持ちながら考え込む男・ヘラクレイトス。 このギリシャの哲学者のモデルこそ、ミケランジェロなのです。
絵全体のなかで、前方のほぼ中央に描かれたミケランジェロ。 それはラファエロがミケランジェロを、最大限に評価した現れでした。 天才が天才に魅了されたのです。
研究者「ラファエロがミケランジェロの描きかけの天井画を見たことは間違いないでしょう。それ以降、彼の描くタッチが明らかにミケランジェロの影響を受けるようになるのです。 一番判るのは、ミケランジェロをモデルにした、ヘラクレイトスです。 あれはミケランジェロのタッチで描かれています。ヘラクレイトスのタッチが、周りに描かれた人々とは全く違うのです。」
「ミケランジェロは天才だということを、みんなにアピールするために、ラファエロは絵の真ん中に、ミケランジェロをどうしても描きたくなったんだと思います。」
「万物は流転する」と説いたヘラクレイトス。 ラファエロはこの人物を、ミケランジェロをモデルに描いたとき、明らかにミケランジェロのタッチを意識していました。それは他の登場人物を比べると、歴然としています。 見てのとおり、肉体描写が全く違います。 筋肉の付き方までを意識したヘラクレイトスの描写。 「美の本質は神に似せて創造された人物の肉体である」ミケランジェロの言葉です。 その真髄をラファエロは、天井画を一目見ただけで、見抜いていたのです。一人でコツコツと描きあげるミケランジェロと違い、ラファエロは弟子たちを上手に使いながら、大作に挑みました。『アテネの学堂』を含む「署名の間」四面の壁画を、彼は3年で完成させています。その出来栄えに、教皇ユリウス2世は満足し、他の画家たちが手懸けるはずだったヴァチカンの仕事を、全てラファエロに任せるようにと命じたほどでした。




「署名の間」の壁画が完成したあと、ラファエロが次に取り掛かったのは、隣の部屋の「ヘリオドロスの間」の壁画でした。
その中の「神殿から撃退されるヘリオドロス」。それまでのラファエロに無かった力強さが、躍動していました。 兵士たちの激しい動きと肉体描写はまさにミケランジェロ。このようにラファエロは、ダヴィンチと出会ったときもそうだったように、天才の技法をいち早く吸収し、自分の新しいスタイルを作り出す才能に長けていました。 それがラファエロの天才たる所以です。
ラファエロが大きな影響を受けた、ミケランジェロの天井画は、アテネの学堂完成の翌年1512年に出来上がりました。 その時人々は驚嘆の声をあげ、口々にこうつぶやいたのです。
「神のごときミケランジェロ」
ユリウス2世は、その完成を見届けてからわずか3ヵ月後にこの世を去りました。
そして2年後、ブラマンテも失意のなか亡くなるのです。
世界で最も小さく、そして神秘的な国・ヴァチカン。ここには多くの美術品と、才能溢れる人たちが集められました。選ばれた一握りの者しか、ここで仕事をすることは、許されなかったのです。そしてそれはいま、人類の掛け替えの無い遺産になっています。
14代にわたるキリストの祖先たちの歴史です。それまでは王族や英雄として描かれていたキリストの祖先たちを母と子や家族と一緒の構図にすることは初めての試みでした。
描かれたのは人間の業とも受難とも言われています。 なかでもラファエロが描いたこの傑作、「アテネの学堂」実はラファエロは、アテネの賢人たちを描きながら、そこに自分たちの時代を、二重映しにしていたのです。 尊敬するダヴィンチやミケランジェロなど、同時代の先輩たちをモデルにしました。
 そして絵の右隅に、自らの姿も描き込んでいるのです。 人垣のなかから冷静にこちらを見つめているのが、ラファエロ自身です。 
研究者「ラファエロは、自分もルネサンスの時代を生きた一人だという想いから、ダヴィンチやミケランジェロと同じ絵の中に自らの姿を描きこんだのです。 二人の心から尊敬できる画家を敬い、そこに自分も近づきたいと思ったのかもしれません。 そして偉大な時代を生きたんだということを表現したくて、描きこんだのです。」
27歳で、この絵を完成させたラファエロは、その十年後、わずか37歳の若さでこの世を去ります。余りにも早すぎる死でした。 しかし、彼は自信を持ってこう言い残したのです。
「我らの時代こそ、かつて最も偉大だった古代ギリシャの時代と肩を並べるほど素晴らしい時代なのだ」と。
ラファエロ・サンツィオ作、「アテネの学堂」。ルネサンスの潮流を生み出した天才たちの、華麗なる競演。




   
ラファエロ・サンツィオ 「アテネの学堂」

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