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ラファエロが『署名の間』に壁画を描くようにという依頼を受けた時、そのすぐ隣りの「システィーナ礼拝堂」では、すでにミケランジェロが、天井画の製作に着手していました。
隣り合わせの建物。距離にしてわずか、2,30メートルしか離れていない場所で、ラファエロとミケランジェロという二人の天才が、同時に作品に取り組むことになったのです。
ラファエロとブラマンテは同郷であり、遠い親戚でした。二人の出身地は、イタリア中部の町・ウルビーノです。 この町を治めていたモンテフェトロ家は、芸術家のパトロンとして知られており、各地から才能ある人を、ウルビーノに招いたのです。これはラファエロが15歳のときに描いたと言われる聖母子像。 父親が宮廷画家だったラファエロは、子供の頃から上流階級の人たちと接する機会を得、様々な画家たちから新しい技法を吸収して育ちました。
ペルージャの工房で修行を積んだあと、22歳でフィレンツェに出たラファエロは、その気品ある画風と、持ち前の人当たりの良さで、一気に売れっ子の画家になります。
特に彼の描く聖母子像は人気が高く、評判を呼びました。それは、当時フィレンツェで活躍していた、レオナルド・ダ・ヴィンチの技法を学んだ成果だったのです。
ところで、このダヴィンチの顔。気難しそうでいて、知性に溢れた顔。
どこかで見覚えありませんか? この顔が、「アテネの学堂」のなかに居るのです。 中央で天を指ししめしているプラトン。 このモデルこそがレオナルド・ダ・ヴィンチだったのです。何故なのでしょうか?
研究者「ラファエロがプラトンのモデルに、ダヴィンチを選んだのには訳があります。二人に、共通する偉大な功績です。 プラトンは新しい哲学の先駆者であり、ダヴィンチもまた、美術の歴史を変えた人物です。 それとラファエロ自身がダヴィンチを高く評価し、尊敬していたということもあるでしょう。 ラファエロは下絵の段階から、プラトンの顔を、ダヴィンチそっくりに描いています。 彼には、あの絵の中心的存在であるプラトンは、ダヴィンチ以外考えられなかったんじゃないでしょうか」
ある日ブラマンテは、ラファエロをミケランジェロのいないシスティーナ礼拝堂に、連れて行ったのです。 そこでラファエロが見たものとは?
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