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2004年8月7日 放送

 

晩年、その画家は、どんな傑作を生んでも、にこやかにこう言いました。
・・・「別に工夫無し」、
今日の一枚は、東京の山の中にあります。車窓からビルが消え、緑一色となる辺り、
JR青梅線御獄駅。駅の目の前は、渓谷にかかる橋。せせらぎの音が聞こえてくるほどの静寂・・・。
東京湾に注ぐ多摩川もこの辺りでは、まだ清流です。
ここは昭和一七年から晩年の一四年間、画家が暮らした所です。
その美術館は、小さな橋のたもと、むせかえるような木立の中にありました。
『玉堂美術館』。
近代日本画の巨匠と云われた、川合玉堂の個人美術館です。
日々の喧噪に追われ、いつしか忘れてしまったあの日の風景・・・、
かつてはどこにでもあった静寂の一時・・・、
玉堂の描く日本の自然は、優しく人を包み込みます。
生涯をかけて美しい日本の風景を探し求め、描き残した人。
中でも彼が何度も何度も飽きずに描いたのが、《鵜飼》でした。
今日の一枚は、一九五六年、川合玉堂作、《鵜飼》。
急流の中、鵜飼が始まっています。
「ホーホー」と鵜を操る鵜匠の声、パチパチとはぜる篝火・・・、緻密に描かれているわけではありません。
しかし、躍動感に溢れています。
そして、太い線だけで描かれた鵜のスピード感・・・。
獲物を取り誇らしげに翼を広げる鵜、
よくやったと、声をかける鵜匠。
線の一本一本が生き生きと走っています。
・・・命踊る日本の夏。
川合玉堂がこれを描いたのは、この世を去る前年、八三歳の時でした。
《鵜飼》をテーマにした玉堂の作品は、およそ五百点。
一七歳ではじめて描いてから八三歳の最晩年まで、六六年間、《鵜飼》を描き続けたのです。
何度も何度も、鵜飼の季節になると、玉堂は長良川を訪れたと云います。
画家は、何故、それほどまでに鵜飼に惹かれたのでしょうか?
若くして日本画の巨匠と云われ、横山大観らと共に、常に第一線にあった玉堂・・・、
彼は、何故、生涯に渡って、執拗なまでに《鵜飼》を描き続けたのでしょうか?
玉堂、最晩年の《鵜飼》。そこにあったのは、巨匠と云われた画家が達した最後の境地でした。




「鵜飼と云えば玉堂、玉堂と云えば鵜飼」・・・、
そう云われました。何故、川合玉堂は、生涯五百点もの鵜飼を描いたのでしょうか?
そこには、一つ所に満足せず、常にさらなる上を目指す、玉堂の画家としての厳しい生き方が隠されていました。
愛知で生まれ、岐阜で育った玉堂にとって、長良川の鵜飼が身近な存在であったことは確かです。
でも、それだけが理由ではありませんでした。
 一四歳で絵の道に入った玉堂は、最初、親しみやすく柔らかな画風の京都の円山四条派を学びました。
しかし・・・、二三歳で江戸狩野派の品格堅固な絵に触れると、迷うことなく上京します。
一つの画風に縛られることなく、常に変化して行った玉堂。
《鵜飼》は、その時その時の自らの画風を確かなものとする為の格好の素材でした。
何故なら、そこには日本画の全ての基本が含まれているからです。
鵜を描く時の花鳥画、鵜匠を描く時の人物画、そして、背景である風景画・・・。
それ故、古くから多くの画家が自らの力を試すために、《鵜飼》と云うモチーフに挑んできました。
玉堂もそうでした。
六六年間、毎月のように描かれた《鵜飼》には、その折々の彼の最高の技術と、境地が取り入れられていたのです。
では、二〇代、五〇代、八〇代、それぞれの玉堂の《鵜飼》を見てみましょう。
まず、明治二八年、二二歳、玉堂がまだ京都にいた頃の作品。
筆遣いも彩色も実に緻密・・・。
切り立った断崖の下をとうとうと流れる大河。そこで繰り広げられる鵜飼。
山々と木々は、中国の影響を受けた古典的な日本画の画法で描かれています。
鵜飼は、遠景。優雅で落ち着いた風情です。
次に昭和六年、五八歳の時、既に巨匠として日本画壇の頂点に立っていた頃の作品。
膨大な数の玉堂の《鵜飼》の中でも最高傑作と推す人の多い作品です。
中央に墨で描かれた岩の重量感が作品全体に安定をもたらしています。
このころになると流派にとらわれない玉堂ならではの
柔らかな線で鵜飼の情緒とリアリズムを表現しています。
そして最後に今日の一枚、昭和三一年、玉堂八三歳の時の作品。
この躍動感はどうでしょう。
完成された玉堂独自の世界。
線は太く大胆な表現で観るものに迫ってきます。
だからこそ、鵜飼の楽しさと、賑わいが直に伝わってくるのです。
およそ五百点もの《鵜飼》を描いてきたからこそ、辿り着けた境地・・・。
それは、実際の風景を写したものではなく、正に彼の心を写したものでした。




「洋画は自然をそのまま絵にするが、日本画はそれを作って絵にするのである・・・。
だから日本画は、一つの場所を絵にするよりも、
ちがった多くのよい場所をあつめて、それをつなぎ合わせて、
一つの纏まったよい絵を拵える場合が多い」
自然を自分の中で組み立てる・・・、
しかし、その為に玉堂は凄まじいばかりの執念で日本の自然に迫りました。
その証拠が玉堂美術館にあります。
一五歳の頃から始まる膨大な写生帳。
十代の頃は、身近な花などが、図鑑のように忠実に写されています。
驚くべきことに、その多くが下書き無し、殆ど一筆で描かれています。
中には、観たままを大雑把にスケッチしたもの、彩色され、そのまま作品になりそうなものまであります。
玉堂にとっては、その自然の中に身を置くこと、それ自体が重要だったのです。
玉堂の写生とは、ただ見た儘を写すのではなく、自然の本質に迫るものでした。
定評のある玉堂描く所の水の流れ。
時にはうねり、時にはしぶきをあげ、変幻自在な動きを見せる水を描く為に、
彼はひたすら川面を見つめ続けました。
・・・そして、見たものは?
五感を総動員して対象に迫ったスケッチ。しかし、いざ画室で絵を描く時になると、
玉堂はそのスケッチを殆ど見ませんでした。
「こうして写生しておきますが、頭に入っている自然にくらべたら、こんなものは全く九牛の一毛にも足りません。 自然を見て、見て、さんざん見るんですからね。 こうしていて目をつぶると、あらゆる自然がはっきり浮かんで来ますからね。そうでなくっちゃかけませんな」




あらゆる自然を写した玉堂の写生帳。しかし、それも八十歳を過る頃となると、遠出することもなくなり、題材は身近なものばかりとなって行きます。
芸術への情熱が衰えたのでしょうか?
いいえ、彼は八十を越えて、未だ尚新たな芸術の境地を目指していました。
奥多摩…、最晩年の川合玉堂が愛した風景。
 …八十を過ぎてからも玉堂はアトリエ近くのこの渓流までやってきて 、スケッチをしていたと云います。 時折、ボソボソとこんな言葉をつぶやきながら…。
 「水になれ…、木になれ…」
 描いているその絵に云っているのか、それとも自分自身に云っているのか…?
 同じ奥多摩の住人、小説家吉川英治はこう云っています。
「自然と一つに、それが玉堂さんの宗教といえば宗教、思想といえば思想、生きるすべての原則だった」
二二歳と五八歳、 そして八三歳の時に描かれたそれぞれの《鵜飼》。比べてみると、色彩やタッチの他にもう一つ、大きな違いがあることがわかります。
それは、画家の目と鵜飼までの距離…。 二二歳の作品では、 鵜飼はあくまでも広い景色の中の一部…、かなり遠い所にあります。
それが五八歳の作品となると、川岸から眺めるている程の距離となり、
八三歳の時には、もう手を伸ばせば届きそうな所まで近付いています。
玉堂は年を経るに従って、少しずつ愛する自然に近付き、そして最後にはその中にとけ込んでしまったのです。 六六年間、《鵜飼》を描き続けた玉堂。
目を瞑れば、 いつでも目の前に鵜飼の風景が浮かびました。
鵜匠の声が聞こえ、水の心地よい冷たさを感じました。だから、鵜飼を描こうと思えば、もうそれだけで筆が自然に動き出す。 もう、何の技法も構図も考えません。
ただ、筆に従うだけ…。描きながら、玉堂は鵜飼の風景の中に入り込み、鵜や鵜匠たちと一緒に絵の中で遊んでいたのでしょう。
だから、この絵はこんなにも躍動感に満ち、楽しいものです。
そして、描き上げた時、彼はこう云うのです。
…「別に工夫無し」、特別なことは何もしていないと。
喧噪の日々に追われ、自分を見失いそうになったら、山へ向かう各駅停車に乗ってみませんか?
そして、あの絵の前に立って観てください、聞こえてきませんか画家の最晩年の境地です。
「…別に工夫なし」
自らの芸術を高めることに生涯をかけた画家の永遠のテーマです。
描いたのは、千三百年間、変わらぬ風景…。日本画の醍醐味。
愛する自然を描くことに夢中になった画家の喜びが伝わってきます。
鵜飼。六十六年間日本の夏を描きつづけた川合玉堂が最後につかんだ一枚。
   
川合玉堂 「鵜飼」

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