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2004年8月21日 放送

 

例えば、地方に出張していた人が、東京に戻って来ます。
「これからまた電車はしんどいや、タクシーにしようか」
と丸の内の方に回ります。
振り返れば、東京駅。
「ああ、帰ってきた」と思う人も多いでしょう。
新しい丸ビルで、ランチを楽しむとします。
窓の外には赤レンガの駅舎が見えます。
その姿に、旅情をかきたてられる人もいるでしょう。
今日の作品は、そう「東京駅」です。
住所、千代田区丸ノ内一丁目九番一号。
この地に東京駅が誕生したのは、90年前の1914年、大正3年の事です。
駅舎の全長は、320メートル。
煉瓦の建造物では日本最大。
向かって左側は、丸の内北口。
かつては、降車口専用の建物でした。
完成当時とは、装飾や様式が、違っていますが
ドーム型の天井は、当時の姿を伝えています。
駅舎に沿って歩いていくと、ステーションギャラリーの入口が見えて来ます。
駅の喧騒とは無縁の空間。
駅舎の中央に構えているのが、車寄せを持つ「正面玄関」。
皇室専用の出入口ですから、一般の人は立ち入り禁止です。
花崗岩と漆喰の白が、静謐さを保っています。
正面玄関の右手には、大正4年創業の「東京ステーションホテル」。
古き良き時代の香りを湛える日本を代表するクラシックホテルの一つ。
人気のお部屋は、こちら。
窓から見えるのは、南口の改札ホール。
一つの街並みのような東京駅。そのデザインを決定しているもの・・・。
それが赤レンガと花崗岩です。
丁寧に積み上げられた赤い化粧煉瓦。
腰回りや窓枠、壁面の化粧柱には、堅牢な花崗岩が使われています。
その赤と白のコントラストは、見る度に表情を変えます。
ある時は生真面目、ある時はあでやか。
厳めしい訳でもなく、悪戯に庶民的でもない。
まるで老いた哲学者のように、時に、渋い名優のように、この地に佇んで来たのです。
100年近い歳月を生き抜いて。
この東京駅を設計したのは、建築家の辰野金吾。
明治の建築王と呼ばれた男です。
彼の業績を物語る一枚の油絵があります。
手掛けた建築群が、一つ都市のように、凝縮して描かれています。
「辰野式」と呼ばれた煉瓦を基調とした独特の西洋建築で日本という国家を、近代化しようとした建築家でした。
辰野金吾が、生涯を賭けた最高傑作。それが、東京駅の駅舎なのです。
では、一緒に探ってみましょうか?
国家のテーラーと呼ばれた建築家が描いた、煉瓦の夢を・・・。
東京駅の美の秘密を。




大阪と和歌山を結ぶ南海本線。
その沿線に日本一美しいと評判の駅があります。
浜寺公園駅の駅舎です。
設計者は、東京駅の辰野金吾。
玄関ポーチを支える柱は、八角形の脚柱にとっくり型という凝ったもの。
その微妙な曲線が、夏のリゾートの駅に美しいアクセントを添えています。
この瀟洒な駅が完成したのは、明治40年。
それから7年後のことです。辰野金吾が、日本最大の駅を完成させるのは。
辰野金吾は、佐賀の唐津の人です。
江戸時代の末、下級武士の家に生まれました。
自分の事をこう語っています。
「俺は頭が良くない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」
辰野金吾が建築を学んだのは、東京大学工学部の前身である工部省工学寮。
建築という概念すら無かった時代です。
外国人講師の元で、製図の引き方から構造力学、デザインや様式といった基礎を学んだのです。
首席で卒業した辰野は、官費留学生に選ばれロンドンで本場の建築を学ぶことを命じられます。
新しい国家の建設という責務が、彼の双肩に掛かっていたのです。
西洋に追いつけ追い越せの文明開花の時代。
辰野には、大きな夢がありました。
「建築家として生まれたからには、東京に建物を三つ建てたい」
すなわち日本銀行、中央停車場、国会議事堂。
願いの一つが叶ったのは、明治21年のこと。
辰野は、日本銀行の設計を任されたのです。
正門を潜ると、柱の回廊に囲まれた中庭が広がっています。
この巨大な花崗岩の建物から響いて来るのは、重厚、厳格、頑丈、永遠といった言葉。
日銀は、日本の大金庫であり金融の砦です。
建築家は、その象徴と機能のイメージを二万一千個もの石を積み上げて形にしたのです。
建物内部の彫刻や装飾には、辰野の美意識が刻みこまれています。
明治維新から30年。日本銀行の完成によって辰野金吾は、建築界の頂点に上り詰めたのです。




当時東京には、二つの大きな駅がありました。
上野停車場と新橋停車場です。
その中間に「中央停車場」を作ろうという計画です。
即ち、東京駅の建設。
辰野の構想は、全てを一つの建物に収めることでした。
皇室専用の正面玄関を中心に、両端に降車口と乗車口を配置し更に、鉄道局とホテルを取り込み、横長の駅舎を設計したのです。
その長さは、300メートルを越えました。
辰野が最後まで迷っていたのが、駅舎に使用する建材でした。
ステーションギャラリーの一室に完成当時の煉瓦の壁面が、今も残されています。
当時最先端の工法は、鉄筋コンクリートでした。
しかし辰野が出した答えは、骨組みに鉄骨を使い体と外壁を煉瓦で統一することでした。
東京駅の建設が始まったのは、明治41年。
当時の丸の内一帯は、三菱が原と呼ばれた広大な荒地でした。
地盤が緩かった為に、1万5千本もの松の木を埋め込み地盤を固めたと言います。
骨組みに使われたのは、3500トンもの鉄骨です。
建設に当たった職人の数は、延べ74万人。
明治の日本が初めて経験する未曾有の大工事だったのです。
その陣頭指揮に当たった辰野は、職人を吟味し、現場に張り付きました。
不具合が生じれば、幾度も設計図を引きなおし、自ら描いた駅舎のイメージを現実化していったのです。
建物の体に使用された煉瓦の数は、830万個。外壁の化粧煉瓦は、凡そ93万個にも登りました。
東京駅が完成したのは、大正3年のことです。
着工から実に6年の歳月。
辰野が還暦を迎えた年に、日本最大の駅は完成したのです。
しかし、評判は・・・。
ところが辰野金吾は大変なことを成し遂げていたのです。
赤い煉瓦に全てを託して。
東京駅の正面には、「行幸通り」と呼ばれる広い道が伸びています。
その道の先は、皇居です。
東京駅は、皇室専用の駅です。
もちろん、一般の民衆の為の駅でもありました。
この二つを両立させること。
その難題に対する辰野金吾の答えこそ・・・。
完成当時は、「さながら宮殿の如し」と呼ばれた駅です。
東京駅の評判は、完成後も芳しくありませんでした。
煉瓦は、工場や倉庫によく使われた建材です。
ロンドンで建築を学んだ辰野にとってそれは、民衆の活力と息吹の象徴でした。
正面玄関は、花崗岩と漆喰が用いられています。
その白い色調は赤レンガと交じりあい見事なコントラストを形作っていきます。
皇室専用の駅だけでもいけない。
民衆の駅でもなければならない。
辰野金吾は、一つの理想を駅舎に求めたのです。
その赤と白の色調の中に。
建築の力で新しい国家を作ろうとした男です。
この明治の建築王が、65年の生涯を終えたのは東京駅の完成から5年後でした。
照明デザイナーの石井幹子さんが駅舎のライトアップを依頼されたのは1986年。
今、東京駅を完成当時の姿に戻そうという計画が進んでいます。
それも又、この駅舎が愛されていることを証明しているのかもしれません。
どこか生真面目で、どこかあでやか。
いかめしい訳でもなく、悪戯に庶民的でもなく、
まるで老いた哲学者のように、ときに渋い名優のように佇んで来たのです。
100年近い歳月を生き抜いて。
辰野金吾作 東京駅駅舎。
赤いレンガの夢。





   
辰野金吾「東京駅」

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