|
1788年。42歳なっていた江漢は、もっと西洋を学ぶため、ついに長崎に出向きます。
出島のオランダ商館では、本場の西洋画に接し、初めて風景画に、油絵の具を使ったのです。
さらにオランダ人との交流を通して、西洋の様々な文物に触れました。それは好奇心旺盛な江漢を大いに刺激したのです。
ところで江漢は、長崎に向かう途中で、思わぬ感動と出会い、しばし足を止めスケッチをしていました。
それは間近に見た富士の山でした。
絹地に、墨と岩絵の具で描きました。
ただよく見ると、エッチングのような細い線が描き込まれています。
やがて、江漢は油絵の具で富士を描く事を思い立ちます。富士山は江戸からも望むことができる、親しみと、威厳を兼ね備えた山。江戸っ子の江漢が間近に見た富士の感動を、表現できる物それが油絵の具と西洋の画法だったのです。
さて、今日の一枚、富士の連作のなかでも大作の『駿州薩陀山富士遠望図』は、長崎の旅から10年後に描かれたものです。
江漢が油彩で描いた富士の絵の、集大成といわれています。
海の複雑な青、山肌の色の移ろい、日本古来の淡彩とは違い、絹地の上で、様々な色を丁寧に重ねあわせ、微妙な色彩の変化を出しています。その筆使いの慎重さが、この作品をまるで静止しているかのような、不思議な雰囲気にしているのです。
そして気になるのが、右上の名前とともに描かれた横文字。
この朱色の文字こそ、司馬江漢の本質に迫る・・・大きな手掛かりだったのです。
画家であり、発明家でもあった司馬江漢。摩訶不思議な人物です。
彼が57才の時描いたのが『駿州薩陀山富士遠望図』。この絵の右上に朱色で書かれた文字は、オランダ語で、「日本における最初のユニークな人物」という意味です。
自らあみ出したエッチングの作品にも、独特のサインが添えられていました。「日本創製司馬江漢」。日本で初めて作ったと、自ら高らかにアピールしているのです。江漢とは、そういう男でした。
江漢は、コペルニクスが唱えた地動説の合理性を見抜き、模型を使って、多くの人にその説を説いて廻っています。
時には、天子将軍から庶民まですべて、同じ人間であるという平等論や開国論まで展開したのです。
時はまさに、松平定信による質素倹約を掲げた寛政の改革が、庶民の生活を締め付けていました。しかしやがて、その改革が破綻し、幕末へと向かう歴史の曲り角でもありました。
司馬江漢は、そんな時代に西洋の文化に触れ、時代の先頭を走ったのです。新しい時代が訪れる気配をいち早く感じ、日本人の心の象徴である富士山を、油絵で描いてみせることで、庶民に新しい文化や思想を知る目を、開かせようとしたのかもしれません。しかし…。
|