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2004年10月23日 放送

 


画家が、その峠を初めて通ったのは、1788年。
江戸時代中頃のことでした。
しかし記録によれば、画家の目当ての山は、その日、残念ながら見えなかったのだそうです。
それから十数年、彼は何十枚も、その風景を描くことになります。

画家の名は司馬江漢。中国風の名前ですが、れっきとした江戸っ子です。本名を安藤吉次郎。
若い頃は謎が多く、中年以降は実にユニークに生きた人物でした。

静岡市。緑深い、この町の文教地区。
そこに、静かに佇む美術館があります。
静岡県立美術館。広いロビーを通り抜け、二階へ上がってください。
17世紀以降の山水画、風景画が並ぶ中に、その絵はあります。
ただし、特別な時にしか公開されていない、秘蔵品です。
無理を言って飾っていただきました。

今日の一枚、司馬江漢・作、
『駿州薩陀山富士遠望図』。
縦78・5センチ、
横146・5センチのワイド画面。

あの峠付近から見た風景画です。
山と海が織り成す雄大な景観を強調した、弓形の構図。

その奥にドンと据えられた山、そう富士の山です。
ところで、よく見ると、塗り重ねられた絵の具の跡が見えませんか?
実はこの作品、絹の上に油彩で描かれたものなのです。


明治維新から60年以上も前に描かれた、油絵。
人っこ一人いない、日本の風景。

それにしてもどこかで、見たことがあるような絵・・・。ああ!・・・
・・・銭湯。ほら、似ていませんか?
ちなみに銭湯のペンキ絵は、大正の初めに東京で描かれたのが最初。騒ぐ子供たちを、雄大な富士の風景で大人しくさせるためだったといいます。

この絵には、長かった江戸時代が、そろそろ終わりを告げようとする頃、人生半ばを過ぎた絵描きの、まだ見ぬ西洋への強い憧れが滲み出ています。時代の波に乗ろうとしながら、その波が、来そうで来ない。奇人と呼ばれても、西洋に挑み続けた司馬江漢の執念がこの一枚に描きこまれているのです。




日本人にとって富士の絵といえば、やはり北斎でしょうか。いや広重のほうが好きだ、という人も多いはず。ところが彼らより50年も前に、様々な手法で、富士の絵を描き続けた男がいるのです。

そう、司馬江漢。今日の一枚も、そんな作品のひとつです。
静岡県由比町にあるサッタ峠から、富士山を眺めたものです。
ここはどんな場所だったのでしょうか歌川広重が、のちに同じ場所から見た富士を描いています。切り立った崖。ここは、東海道を関東へ入る手前の、最大の難所といわれた場所でした。高速道路は走っているものの、今も変わらぬ海岸線が続いています。

漁師の小屋でしょうか。
海岸に押し寄せる波。
江漢は絵の手前に海岸線の広がりを、その奥に、そびえる富士山を透視図法で雄大に描いています。

青い空に浮かぶ雲は、まさに西洋画の描きかた。それにしても江漢は、西洋へ強くあこがれていた江漢、それは一体どうして。

司馬江漢は1747年。江戸で町人の子として生まれました。
芝の新銭座、現在の浜松町界隈で育ちます。苗字の「司馬」は、この住所に由来しています。
記録によると、江漢が絵の世界で最初に名を上げたのは、浮世絵の美人画でした。
師匠は鈴木春信。可憐な美女を題材にした多色刷りの版画、「錦絵」を考案し、江戸庶民を虜にした絵師です。
江漢は、春重の名前で多くの下絵を描き、人気を得ていました。
やがて師匠・春信の急死を受け、江漢が二代目・春信として名を継いだほどでした。
二人の描く美人画は、よく似ています。ただ江漢の絵は、すでに西洋画を意識していたのか遠近感が特徴でした。

ところが江漢は、突如浮世絵をやめ、宗紫石に中国の写実的な花鳥画を習い始めます。
そこでも、すぐに師匠をしのぐ腕前に達します。その時つけた雅号が「司馬江漢」だったのです。
ある日、江漢は師匠の手本の中に、不思議な絵を見付けました。
それは精緻な描写で描かれた、動物のエッチング。こんな絵が描きたい。
西洋の絵画技術に触れたい。この男、好奇心の塊だったのです。ちょうどその頃、江漢は、彼の人生に大きな影響を与えた人たちと
出会います。
蘭学者の平賀源内や蘭方医の杉田玄白です。
源内は、摩擦を利用して電気を発生させる、エレキテルを作った江戸の大発明家。

一方の玄白は、あの『解体新書』を出版した頃でした。科学や医学の世界では、一足早く、西洋への扉が、開かれようとしていた時代。江漢も新しい芸術にトライします。
それがエッチングでした。エッチングは銅板に薄く張った膜に線を描きこみ、その線を腐食させて溝を作り、そこにインクを入れて印刷するというもの。
一番の問題は腐食液でした。オランダの文献を頼りに、江漢は蘭学者・大槻玄沢と共同で、溝を造るための腐食液を発明。こうして江漢は、日本人として初めて、エッチングの制作に成功したのです。

これが江漢が初めて作ったとされる、エッチング。西洋絵画そのもののような精緻な筆遣いに、着色をほどこしたので、そのリアルさは、江戸の庶民の目を釘付けにしたといいます。

この作品では、かつて見たライオンを描き込んでいます。江漢は、この手法で、様々な精密描写を発表していきました。それはチャレンジ精神旺盛な、江漢のなせる業だったのです。




1788年。42歳なっていた江漢は、もっと西洋を学ぶため、ついに長崎に出向きます。
出島のオランダ商館では、本場の西洋画に接し、初めて風景画に、油絵の具を使ったのです。

さらにオランダ人との交流を通して、西洋の様々な文物に触れました。それは好奇心旺盛な江漢を大いに刺激したのです。
ところで江漢は、長崎に向かう途中で、思わぬ感動と出会い、しばし足を止めスケッチをしていました。

それは間近に見た富士の山でした。
絹地に、墨と岩絵の具で描きました。

ただよく見ると、エッチングのような細い線が描き込まれています。
やがて、江漢は油絵の具で富士を描く事を思い立ちます。富士山は江戸からも望むことができる、親しみと、威厳を兼ね備えた山。江戸っ子の江漢が間近に見た富士の感動を、表現できる物それが油絵の具と西洋の画法だったのです。

さて、今日の一枚、富士の連作のなかでも大作の『駿州薩陀山富士遠望図』は、長崎の旅から10年後に描かれたものです。
江漢が油彩で描いた富士の絵の、集大成といわれています。
海の複雑な青、山肌の色の移ろい、日本古来の淡彩とは違い、絹地の上で、様々な色を丁寧に重ねあわせ、微妙な色彩の変化を出しています。その筆使いの慎重さが、この作品をまるで静止しているかのような、不思議な雰囲気にしているのです。

そして気になるのが、右上の名前とともに描かれた横文字。
この朱色の文字こそ、司馬江漢の本質に迫る・・・大きな手掛かりだったのです。


画家であり、発明家でもあった司馬江漢。摩訶不思議な人物です。
彼が57才の時描いたのが『駿州薩陀山富士遠望図』。この絵の右上に朱色で書かれた文字は、オランダ語で、「日本における最初のユニークな人物」という意味です。
自らあみ出したエッチングの作品にも、独特のサインが添えられていました。「日本創製司馬江漢」。日本で初めて作ったと、自ら高らかにアピールしているのです。江漢とは、そういう男でした。
江漢は、コペルニクスが唱えた地動説の合理性を見抜き、模型を使って、多くの人にその説を説いて廻っています。
時には、天子将軍から庶民まですべて、同じ人間であるという平等論や開国論まで展開したのです。

時はまさに、松平定信による質素倹約を掲げた寛政の改革が、庶民の生活を締め付けていました。しかしやがて、その改革が破綻し、幕末へと向かう歴史の曲り角でもありました。
司馬江漢は、そんな時代に西洋の文化に触れ、時代の先頭を走ったのです。新しい時代が訪れる気配をいち早く感じ、日本人の心の象徴である富士山を、油絵で描いてみせることで、庶民に新しい文化や思想を知る目を、開かせようとしたのかもしれません。しかし…。




1796年。蘭学者を芝居役者に見立てた、番付が公開されます。
そうそうたる蘭学者の中で、江漢は、「司馬漢右衛門」の名で役が与えられていました。
その役は、「銅屋の手代こうまん、うそ八」
恐らく、自由奔放に活躍する江漢に、保守的な蘭学者たちがついていけなかったのでしょう。まして、庶民には。

1813年。司馬江漢が出家の末、死亡した知らせが江戸の知り合いの間に出回ります。江漢67才の時でした。
ところが、江漢を町で見かけた人が、次々に現われたのです。
江漢は死んでもいないのに、自ら死亡通知を出していたのです。
それは江漢自らが選んだ、「世捨て人」の生き方でした。

俗世間から身を引いた後、江漢の描く富士は、再び墨と岩絵の具を使ったものに、変わっていきました。

司馬江漢は、自ら死亡記事を出した5年後、江戸・深川で亡くなっています。享年72歳。晩年、彼が読んだ歌が、その人生感を物語っていました。


「食うてひり、
    つるんで迷う世界虫、
       上天子より下庶人まで」


世界虫、つまり人間は、食べ、排泄し、性交して迷うものである。
それはどんな偉い人でも一緒。

たまには、峠を登って富士山を眺めに行きませんか?
もし、あいにく富士が顔を出してくれなかったら、静岡県立美術館へ…。
江戸時代、中年を過ぎて、その人生を過激にニークに生き始めた画家がいました。

静かな富士の絵です。
司馬江漢作『駿州薩陀山富士遠望図』。
真に自由とは何か、そんなことを語りかけてくる、一枚。

   
司馬江漢「駿州薩陀山富士遠望図」

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