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2004年11月6日 放送

 
その生き物たちの一群は、「鱗翅目」と呼ばれています。鮮やかな瑠璃色。神々しい黄色と朱色。蝶たちが奏でる命の色彩に、私たちはため息をつくほかありません。但し、「蛾」も同じ仲間。
それどころか、この地球上の「鱗翅目」の9割が「蛾」です。

固定観念というものは恐ろしいもので、
美しい蝶ならいいが、蛾はどうも、という方が多いでしょう。ではご一緒に見に行きましょうか。
世界で一番美しい「蛾」の姿を。

今日の一枚。
重要文化財、速水御舟作、「炎舞」。漆黒の闇に、紅蓮の炎が燃え上がっています。その狂おしいほどの火柱の先に……、ほら。身を焦がすように、身を躍らせるように。

美しき「蛾」の飛翔。背景の闇は、朱を含んだ深い墨色です。幻想的な炎は、黄口朱も鮮やかに金泥の隈によって燃え盛っています。神秘と幽玄の闇、荘厳なる色彩の調べ。

かつて、この絵を前に昭和天皇はこう呟いたと伝えられています。
『蛾の眼が生きているね』

速水御舟は、大正から昭和にかけて鮮烈に画壇を駆け抜けた人です。精密を謳われたその描写力で、変貌を繰り返す天才として。

画家とは「見る」人です。
とりわけ速水御舟は「凝視」の人です。見ることの凄みと、見続けることの一途さ。そのまなざしが捉えしもの。
時に画壇を揺るがし、時に画壇を驚嘆させ、常に日本画の新しい地平を切り開いてきました。御舟は変貌する天才です。
『梯子の頂上に登る勇気は貴い。
更にそこから降りてきて、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。』

果たして、この炎は何を燃やしていたのか。
燃え尽きた先に、何が待っていたのか。

速水御舟、写実と幻想の果て。



茅ヶ崎の海を望む通りに、晩年の画家の画室が残されています。
質素にして清潔な佇まい。とっても綺麗好きな人でした。速水御舟が愛したもの。
クラシック音楽。フラメンコを見ること。チャップリンの「街の灯」、みたらし団子、そして。

速水御舟はチャキチャキの江戸っ子です。
明治27年、現在の柳橋一丁目あたりで生まれています。幼いころより画才のあった少年は、
13歳の時に、生家の向いにあった画塾に入門します。習ったのは徹底した古典模写。
三年の修行期間で描いたのは数百点にものぼります。その成果が「小春」。

15歳の御舟は、この作品で新人画家の登竜門であった巽画会に入選を果たします。
早熟の天才、御舟のここまでが第一幕、二幕目の幕開けは先輩のこんな言葉でした。

『日本画なんてこんなに固まってしまったんでは仕方がありゃしない。兎に角破壊するんだな。そすと誰かが又建設するだろう。僕は壊すから君たち建設してくれ給え。』

今村紫紅は、当時、日本画壇の先進的リーダーでした。大正3年、「赤曜会」結成。
気鋭の若者たちが、集います。紫紅発案のバッジは、赤地に「悪」の文字。
その意味するところは、「悪」と「善」とは表裏一体。
醜の中にも美を見出すという決意。青春の紋章を胸に、若者たちは銀座界隈を闊歩するのです。


御舟は画室を離れ、戸外にその場を求めていきました。
西洋の印象派の画家たちのように。
彼の絵筆は、自由を謳歌していくのです。ところが、この二幕目は唐突に終わってしまいます。大正5年、「赤曜会」解散。
今村紫紅が35歳の若さで急死してしまったからです。

三幕目が開くまでに、2年の月日を要しました。
御舟は京都の寺に籠ったのです。鮮やかに変貌をとげた作品、「洛北修学院村」。

群青の染み入るような深み。そのまばゆさ。緑青と響きあい、重なり合って、御舟は荘厳なる風景を描ききったのです。

23歳にして日本美術院同人。絵の道を志して10年、三度の変貌を遂げて御舟は画壇の中枢へと登りつめるのです。
ところが。
悲劇が起きました。
浅草の路面電車と衝突、奇跡的に一命はとりとめましたが、左足首から下を切断。御舟は、義足の生活を余儀なくされたのです。

翌年、御舟は不死鳥のように甦ります。
さらなる大胆さを携えて。

「京の舞妓」。細部に、目を凝らし、息を潜めて向き合って下さい。化粧ムラの肌。着物の絞りの質感。さらには畳の目の細やかさ。御舟は驚異の緻密さで挑んだのです。
伝統を破壊し、新たな地平を創造しようと。
しかし、『日本画そのものを壊す、悪写実』と、大観の怒りをかってしまうのです。

埼玉県、野火止の地に、名刹、平林寺があります。大正12年、御舟は剃髪・僧衣といういでたちで9ヶ月ほど滞在しています。その精進の導く先。

御舟は、緻密さから遠いところへ行ってしまいました。
透明で、清涼なる空気感。
ひたすらの抒情。

『梯子の頂上に登る勇気は貴い。更にそこから降りてきて、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。』
御舟に、停滞や拘泥という言葉はありません。ひとえに頂上を目指すのです。
次なる頂きは……、
『炎を描いてみたい』

三ヶ月に及ぶ軽井沢逗留を経て、「炎舞」は完成しました。
紅蓮の炎、妖しい光。
観察の眼力とその結晶。身を焦がすように、身を躍らせるように。

美しき「蛾」の飛翔。モノノゴマダラメイガ。ヨツメアオシャク。シロヒトリ。
渦巻く炎に乱舞する蛾たちがいざなうのは、漆黒の闇。速水御舟、写実と幻想の果て。


御舟が「炎舞」を世に問うた翌年、ひとつの時代が幕を閉じました。そして御舟は誰もが到達しえなかった新たな峰を目指したのです。昭和という時代に。

「見る」ことの本質とは何か。
「写生」の真髄とは何か。
速水御舟は全身でその答えを模索した男です。

精密に、丹念に。自在に操る、御舟の色と形。
その先に、見つめていたもの。

京都市北区、ひっそりと佇む地蔵院には、かつて一本の椿の老木がありました。

樹齢400年という八重椿。御舟はその姿を大胆に描ききったのです。二曲一双の金屏風に堂々たる散椿。花弁のひとつひとつの細密さ。葉脈までも透かした葉の凄み。しかし、それらを支える幹の奔放なデフォルメはどうでしょう。

装飾的な日本画の伝統に投げかけた、御舟のキュビスム。
写実の彼方にたどり着いた世界。

 




「炎舞」の翌年、御舟は「蛾」だけの世界を描きました。
一層色鮮やかな蛾の群れは、渦巻くように上昇を続けています。
尽きせぬ破壊と創造を繰り返す御舟自身のように。

昭和6年、ヨーロッパ歴訪を終えて御舟が取り組んだのは、再び「女」です。
酷評を浴びた「京の舞妓」以来のテーマ。
こんな謎めいた言葉とともに。『これからは売れない絵を描くから』

それからほどなく、昭和10年、腸チフスに罹り、御舟は40歳の生涯を閉じたのです。その突然の死を悼んで、安田靭彦は、『天、無情なり』と嘆きました。惜しまれる死というものは、その先にどんな未来があったのか。残されたものたちの想像力をかきたてる力があるものです。

果たして、速水御舟という画家が行き着く地平は何処だったのか。生前、その雅号は何故かと尋ねられて御舟はこう答えています。『私自身、いつ何時、方向転換するか分からない、舟みたいなもの』
紅蓮の炎、蛾の乱舞。
重要文化財、「炎舞」。

速水御舟、写実と幻想の果て。

   
速水御舟「炎舞」

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