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2004年11月27日 放送

 
権力に反抗し続けた男です。自分の絵画が、フランスの芸術を変えると信じていました。
剣の代わりに絵筆で戦った画家‥‥。

湖に面したスイス北部の古都、チューリッヒ。その画家の絵は、ここ、チューリッヒ美術館にあります。

レンブラントをはじめ、モネやゴッホなど、17世紀から20世紀までの名画が揃っています。
その一角に、今日の一枚があります。ギュスターヴ・クールベ作、「鱒」。

清流に棲む魚が、縦55センチ、横89センチのキャンバス一杯に描かれています。
暗い水の中で、光り輝くように描かれた一匹の鱒…。
今にも動き出しそうな躍動感。しかし鱒は今、生と死の瀬戸際にいるのです。大きく開いた口には釣り針が…。釣り上げられれば、死を待つのみ。だからこそ血を流し、必死で抵抗する。生きるか死ぬかの闘いを、激しい筆遣いと強いコントラストで描いた迫力の一枚。

描いたのは19世紀フランスの画家、ギュスターヴ・クールベ。

彼はよく、故郷の風景を描きました。目に見える現実を描く…その写実こそ、真の芸術だと信じていました。そして彼は、自信家でした。時に傲慢と云われるほどに。

絵を買ってくれるパトロンよりも、画家である自分の方が偉い。そう、彼は信じていました。しかし、サロンは彼を認めませんでした。それどころか嫌ってさえいたのです。

クールベは実によく風刺画に登場しました。

サロンの審査員たちがクールベを拒絶し、何とか会場に入れまいとしています。何故、彼はこれほど嫌われたのか?

それは当時のサロンが、理想化された世界を描いた作品ばかりを、賞賛していたからなのです。
アングルのように、描かれる対象は美化され、神や英雄が登場するものこそ、絵画にふさわしいとされていた時代。そんな固定概念を崩そうとしたのがクールベでした。あの印象派よりも前に、サロンにたった一人で立ち向かった画家。
神も英雄も登場しない、リアリズムの世界で。そんな反逆児が描いた今日の一枚。何故、彼は瀕死の鱒を描いたのか?

パリから南東へおよそ350キロ、フランシュ・コンテ地方オルナン。

スイスにほど近い、山あいの小さな村です。
1819年、クールベは、この村の大地主の長男として生まれました。その生家は、今では彼の美術館。作品だけでなく、彼が愛用していた画材道具も見ることが出来ます。

彼がパリへ出る以前に描いた作品。若き画家は、ありのままの風景をとらえ、キャンバスに描いていたのです。

20歳の頃、パリに出てきたクールベは、ルーブル美術館に通いつめ、古典絵画の数々を模写します。なかでもレンブラントは憧れでした。いかにすればこのように描けるのか?線という線、色調という色調を脳裏に焼き付け、研鑽を重ねました。
そのレンブラントのように、クールベは今日の一枚で、明暗法を駆使しています。だからこそ、鱒の存在がより浮き立って見えるのです。そして、クールベは、そこに荒々しいタッチを加えました。その激しさが、この絵により大きな迫力を与えているのです。非難されれば、どんな権力者であろうと、真っ向から立ち向かう。激しさは、画家の気性の表れでもありました。



30歳の頃、クールベは初の大作に挑戦し、堂々とサロンに出品します。縦3メートル、横6メートルを越える大画面に描かれた「オルナンの埋葬」。

しかし、サロンの審査員は描かれた人物の顔が醜いといい、田舎者の葬式という主題も陳腐で下品だと酷評するのです。人々は美化されていない、神も英雄も登場しない…そんなものを大画面に描くのはもっての他だというのです。

当時のサロンが絶賛したのは、こんな世界。美しい女神と天使が織りなす、神話の一場面。

しかしクールベは、この世界を真っ向から否定します。「女神だって?天使だって?いったい誰が見たというんだ!」そして画壇の中心人物、アングルさえ揶揄するような作品を描くのです。

たとえばこの絵‥‥。女神が掲げた壺から流れ出る水。神話の世界を描いたアングルの傑作「泉」。これに対して、写実のクールベは…。

水がわき出るのは、当然、川である。そして、コルセットでウエストを絞った女の体も、実はこのように大きなお尻をしている。そのままの風景と、そのままの人物。これが現実なのだ。何故それ程まで画家は現実にこだわったのか?

それでは、この絵をじっくり見てください。

そこには、神話の世界では表現できない、壮絶なドラマがあるのです。獰猛な鱒の、生命力に満ちたその存在感。そして釣り上げられる瞬間の劇的な緊張感。

それは実際に対象をつぶさに観察しなければつかめない本物の迫力。それこそが、写実の画家クールベにとって真の芸術だったのです。

花の都、パリ。今でこそ平和なこの街も、130年ほど前は、戦乱が巻き起こっていました。1870年、フランスはプロイセンに宣誓布告するも、わずか数週間で敗北。それに腹を立てたパリの労働者は、政府を追い出し、自らその統治に当たるのです。
1871年3月、労働者によるパリ・コミューンが誕生。クールベもこのコミューンの重要なメンバーでした。しかし‥‥、

わずか2ヶ月で、パリ・コミューンは政府に鎮圧されてしまいます。そしてその時、三万ともいわれる民衆が殺されたのです。やがて、政府の攻撃はクールベにも向けられます。パリ中心部、ヴァンドーム広場にあるナポレオン戦勝記念塔。実はこの塔は、コミューンの統治時代に一度破壊されているのです。その首謀者として逮捕されたのが、クールベでした。

1871年9月、身の潔白を主張するも、クールベは投獄されます。

そんな彼のもとに届いたのは、母の訃報。さらに体調を崩したクールベは、心身ともに消耗しきった末、6ヶ月後に釈放…。
その釈放後に描いたのが、今日の一枚です。ところで、この作品には、クールベの言葉が添えてあるのです。それは‥‥「鎖につながれて」

クールベは少年時代から、故郷を流れるルー川で鱒釣りに興じたと言います。パリへ出てからも、彼はたびたび故郷オルナンに帰ってきました。なぜならここは、写実の画家クールベの芸術の源だったからです。パリでは決して見ることが出来ない、手つかずの自然…。オルナンから車で30分ほど。スイスとの国境近くの山に、ルー川の源泉があります。水がわき出てくるこの洞窟を、彼はキャンバスに収めています。彼は見たのです。母なる自然を。生命の起源を‥‥。

 




画家が幾度となく描いたものがあります。それが、水のある風景でした。

今まさに、水の中から誕生したかのような女性の姿。全てを生み出し、全てを潤す水。それはまさに、生命の源。水は画家の生涯に置いて、大きなテーマだったのです。そして、鱒もまた、水に住む生命。しかし、もはや捕らわれの身であり、その命は、危ういのです。

彼は今、あらぬ罪を被り、絶望の淵に立っています。母の死と自らの病に苦しみ、瀕死の状態です。しかし血を流してもなお、渾身の力を振り絞るのです。力尽きるかもしれません。でも、最後の最後まで抵抗し続ける…。

1877年、あの第一回印象派展が開催された3年後、58歳で彼はこの世を去ります。

印象派の画家達がサロンに挑み、絵画の常識を覆すその前から、たった一人でそれに挑戦した男です。彼が最後を迎えた国に、その作品はあります。ただ、一匹の魚を描いた作品です。でも、あなたは圧倒されるでしょう。
釣られたその瞬間、そこに生まれた劇的なる緊張感。そして、鱒の身体全体からみなぎる、飽くなき生命力。そこからは画家の叫びまで聞こえてきそうです。

我未だ死せず…。

「鱒」。芸術の戦いに明け暮れたクールベが描いた、瀕死の自画像。
   
クールベ「鱒」

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