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2005年3月12日 放送

 
 
 パリの南東に位置するバルビゾン村の風景や農村を描いたバルビゾン派の画家たち。その代表的な画家であるミレーが、名作『落ち穂拾い』を描いたのは1857年のこと。それからほぼ20年後の1876年、武家に生まれた男がその作品を目にします。その作品は激動の時代をくぐり抜けた男に大きな感動を与え、日本の洋画の世界に夜明けをもたらしました。

日本のミレーと言われた男が1890年に描いた作品、浅井忠・作『収穫』。

描かれているのは絶景と呼ばれるものではなく、どこにでもあるような普通の田舎の風景。豊かな実りを前に、一家総出で仕事をしています。母はわらを束ね、娘は米をふるい分け、父は脱穀する。土の匂いまで伝わってきそうな迫真性は、油絵だからこそ表現できた重厚な時間と空間。この絵が描かれた当時、日本の洋画界にはようやく日が当たり始めた頃でした。

しかし、この作品にはまさにバルビゾン派のミレーの後継者としての技術と趣があります。浅井忠は黒田清輝とともに日本近代洋画界の先駆者と呼ばれ、その存在がなければ日本の洋画の歴史は確実に遅れていたと言われています。

 浅井のデビュー当時の傑作である『収穫』の陰には、浅井が生涯の師と仰いだアントニオ・フォンタネージの存在がありました。

1876年、58歳の時に日本にやって来た彼は、あのバルビゾン派の流れを汲む風景画家でした。イタリアでのアトリエ建設で多大な借金を背負ったフォンタネージは、金を目的に日本の美術学校に教師としてやって来ました。しかし、イタリアから持ち込んだ石膏模型や絵の具、キャンバスを眺める青年たちの輝いた目を見た瞬間、純粋に絵画の技術と心を彼らに与えようと思い直したといいます。

 1856年、浅井忠は江戸の佐倉藩中屋敷で藩の要職を務める父のもとに生まれました。しかし、1867年、浅井忠が12歳の時、大政奉還から明治維新へと時代が動き、武士としての未来と価値観が音を立てて崩れ去りました。明治政府は欧風化による近代化を目指し、日本の伝統を否定しました。そんな時代の流れの中で、1876年、明治政府は外国人教師を招いて工部美術学校を創立しました。浅井忠がその第1期生として入学したのは、20歳の秋のことでした。

工部美術学校でフォンタネージは洋画の基礎を片言の通訳を通して一つ一つ教えていきました。

浅井が頭角を現したのは、風景写生に出かけた時のこと。写生に行っても少しも描かず、帰る前になると少しばかり描き、それが教師に称賛された。浅井にはフォンタネージが言う「自然の真実の歌声を聞く力」が備わっていたのでした。浅井の初期のデッサンを見てみると、対象の細部を略して頭に残った自然の印象を強調し、いかにもフォンタネージ風。

 ところが来日から2年後、フォンタネージは失意のままイタリアへと帰国してしまいます。あんなに美術学校に力を入れていた明治政府が、さらに発展させようというフォンタネージの案を実現させなかったためでした。その上、彼は病に冒されていました。師を失った浅井たちは退学し、そんな彼らにさらなる苦難が襲います。東京帝国大学にアメリカから教授として招かれたアーネスト・フェノロサが日本の伝統美術を称え、油絵は歴史を顧みない有害文化であると決めつけたためでした。

 洋画家たちは学ぶところも食べていく術も、そして生きていく場所さえも奪われ、ついには悲憤のあまりに切腹をした者さえいたといいます。凄まじい逆境の中、浅井は挿絵や教科書の仕事で生活を支えながら、関東はもちろん東北、関西にまで足を伸ばして風景のスケッチを続けました。当時、浅井の自宅にはあの『落ち穂拾い』が飾られていたといいます。初めてこの絵と出会った時の衝撃と情熱は、画家の心に生き続けていました。



1889年、上野に東京美術学校が創設されても、フェノロサとその弟子の岡倉天心の強い主張で、西洋画科と洋風彫刻科は置かれませんでした。

その年、浅井はそれに対抗するかのように、自らが中心となって80名の会員を集め、「明治美術会」を結成しました。原敬などの政界財界人を後援者につけて活動を始め、その秋には上野公園の共同競馬会社の馬見所で第1回展覧会を開催します。展覧会には意外にも皇后陛下が来場され、好評のうちに終わります。これを機に、洋画界にも新たな風が吹き始めます。

 洋画家たちにとって受難の時代は確実に終焉に向かっていましたが、それを確実なものにするためには翌年に開催する第2回展覧会をさらなる成功に導かなければなりません。そして浅井はあの傑作『収穫』の制作に取り掛かかります。その作品には日本の洋画家たちを育てたフォンタネージと、そして先駆者となった浅井のすべての力が結集されていました。

 洋画家受難の時代を終わらせるため、浅井が選んだモチーフは秋の収穫を迎えた農夫の姿でした。何でもない田舎の風景、ただ黙々と働く農夫たち。それはまさにフォンタネージから受け継いだミレーのモチーフでした。フォンタネージから最も良い影響を受けたのは浅井忠だと言われています。『収穫』は現実的な日本独自の農村風景を描き、日本の洋画家が日本の風景をテーマとして初めて表現し得た洋画の、最初の頂点となりました。

 1896年、政府は東京美術学校に、工部美術学校の廃止以来、13年ぶりに洋画科を復活させました。そして1898年には浅井自身が教授となりました。その後、2年間のフランス留学を経て京都に移り住んだ浅井は、梅原龍三郎、安井曾太郎など、のちの日本洋画界を担う逸材を育てました。まるでフォンタネージのように。

 



 『収穫』はどこにでもある美しさとはいえ、ただ単に目の前の風景を描いた訳ではありません。

構図はとても緻密に計算されたものでした。籠やふるいを前景に配置することで空間を引き締め、正面を向く2人の女性を描く。

その2人に目を向けると、高く積み上げられたわらに添って自然に奥の林や空へと視線を誘います。

生涯の師、フォンタネージから受け継ぎ、決してくじけることがなかった日常にある美への執着。

日本のバルビゾン派と呼ばれた浅井忠・作『収穫』。日本の洋画界に実りをもたらした偉大なる1枚。
   
浅井忠 「収穫」

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