パリの南東に位置するバルビゾン村の風景や農村を描いたバルビゾン派の画家たち。その代表的な画家であるミレーが、名作『落ち穂拾い』を描いたのは1857年のこと。それからほぼ20年後の1876年、武家に生まれた男がその作品を目にします。その作品は激動の時代をくぐり抜けた男に大きな感動を与え、日本の洋画の世界に夜明けをもたらしました。
日本のミレーと言われた男が1890年に描いた作品、浅井忠・作『収穫』。
描かれているのは絶景と呼ばれるものではなく、どこにでもあるような普通の田舎の風景。豊かな実りを前に、一家総出で仕事をしています。母はわらを束ね、娘は米をふるい分け、父は脱穀する。土の匂いまで伝わってきそうな迫真性は、油絵だからこそ表現できた重厚な時間と空間。この絵が描かれた当時、日本の洋画界にはようやく日が当たり始めた頃でした。
しかし、この作品にはまさにバルビゾン派のミレーの後継者としての技術と趣があります。浅井忠は黒田清輝とともに日本近代洋画界の先駆者と呼ばれ、その存在がなければ日本の洋画の歴史は確実に遅れていたと言われています。
浅井のデビュー当時の傑作である『収穫』の陰には、浅井が生涯の師と仰いだアントニオ・フォンタネージの存在がありました。
1876年、58歳の時に日本にやって来た彼は、あのバルビゾン派の流れを汲む風景画家でした。イタリアでのアトリエ建設で多大な借金を背負ったフォンタネージは、金を目的に日本の美術学校に教師としてやって来ました。しかし、イタリアから持ち込んだ石膏模型や絵の具、キャンバスを眺める青年たちの輝いた目を見た瞬間、純粋に絵画の技術と心を彼らに与えようと思い直したといいます。
1856年、浅井忠は江戸の佐倉藩中屋敷で藩の要職を務める父のもとに生まれました。しかし、1867年、浅井忠が12歳の時、大政奉還から明治維新へと時代が動き、武士としての未来と価値観が音を立てて崩れ去りました。明治政府は欧風化による近代化を目指し、日本の伝統を否定しました。そんな時代の流れの中で、1876年、明治政府は外国人教師を招いて工部美術学校を創立しました。浅井忠がその第1期生として入学したのは、20歳の秋のことでした。
工部美術学校でフォンタネージは洋画の基礎を片言の通訳を通して一つ一つ教えていきました。
浅井が頭角を現したのは、風景写生に出かけた時のこと。写生に行っても少しも描かず、帰る前になると少しばかり描き、それが教師に称賛された。浅井にはフォンタネージが言う「自然の真実の歌声を聞く力」が備わっていたのでした。浅井の初期のデッサンを見てみると、対象の細部を略して頭に残った自然の印象を強調し、いかにもフォンタネージ風。
ところが来日から2年後、フォンタネージは失意のままイタリアへと帰国してしまいます。あんなに美術学校に力を入れていた明治政府が、さらに発展させようというフォンタネージの案を実現させなかったためでした。その上、彼は病に冒されていました。師を失った浅井たちは退学し、そんな彼らにさらなる苦難が襲います。東京帝国大学にアメリカから教授として招かれたアーネスト・フェノロサが日本の伝統美術を称え、油絵は歴史を顧みない有害文化であると決めつけたためでした。
洋画家たちは学ぶところも食べていく術も、そして生きていく場所さえも奪われ、ついには悲憤のあまりに切腹をした者さえいたといいます。凄まじい逆境の中、浅井は挿絵や教科書の仕事で生活を支えながら、関東はもちろん東北、関西にまで足を伸ばして風景のスケッチを続けました。当時、浅井の自宅にはあの『落ち穂拾い』が飾られていたといいます。初めてこの絵と出会った時の衝撃と情熱は、画家の心に生き続けていました。

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