| 将軍・綱吉の命により、幕府が打ち出した「生類憐れみの令」。人よりも犬の方が尊ばれる元禄社会は、まさに不条理な世界でした。
一蝶もこの混迷した時代を生き、そしてその不条理の犠牲者となります。一蝶は当時流行した流説「馬のもの言う」を広めた罪で島流しの憂き目に遭います。この流説は馬や犬、鳥がこんな良い社会はないと言い合うという話。すぐに真犯人は捕まったが、一蝶が解放されることはありませんでした。一蝶は太鼓持ちとしてあまりにもてなし上手だったため、大名に浪費を重ねさせ、なかには吉原の遊女を身請けしてしまった大名もいたといいます。幕府はそんな一蝶にあらぬ罪を被せたのでした。1698年、一蝶46歳の時、三宅島へと島流しになります。
江戸時代、島流しは死刑に次ぐ重罪人に科せられた刑でした。一度流されれば、二度と戻れない…。島の住民が行う耕作や漁の手伝いをし、何とか食いつなぐ者もいました。しかし、餓死する者も少なくありませんでした。そんな流人生活の中、それでも一蝶は絵筆を捨てることなく、華やかな世界を描き続けました。
流人たちは年に数回、親類からわずかな生活物資を送ってもらうことが許されていました。そんな時、一蝶は絵の具を送るように頼み、未だに自分の絵をひいきにしてくれる江戸の愛好家たちのために絵を描きました。そのうちの一つが『布晒舞図』でした。上等な絵の具は手に入らず、安い絵の具すら惜しむように使わなくてはなりません。それでも金色まで使って、着物に華やかさを添えた。吉原で、元禄という時代を肌で感じたからこそ描けた臨場感溢れる一枚。
三宅島とともに島流しの場であった新島にも、一蝶の作品が残されていました。
元禄時代、2艘の帆船を持っていた新島に住む梅田家は、江戸と伊豆諸島間を航行し、物資や流人を運んでいました。その時に一蝶と出会い、のちに絵の具を江戸から三宅島へ送ったといいます。
一蝶は世話になった梅田家が火事で焼けた際、福が舞い込むようにと『七福神図』を送ったといいます。一蝶が日々食いつなぐために描いた、猟師たちが喜ぶ縁起物や神仏の絵は100点以上にも上ります。そんな日々を送り続けたのち、奇跡のような出来事が起こります。1709年、綱吉の死によって生類憐れみの令が廃止され、それに関する罪状であった一蝶は流人生活を赦されたのです。もう踏むことはないと思っていた江戸の地へ戻ったのは57歳の時。そして失われた時を取り戻すかのように、数々の大作を手掛けます。
人気絵師として名実ともに復活した一蝶は、それでも遊廓に足繁く通ったといいます。武士を相手に太鼓持ちをしていたからこそ島流しになりました。だから今度は商人相手に太鼓持ち。一蝶は73歳でその生涯を閉じるまでエンターテイナーであり続けました。不条理な社会に翻弄されながらも、見る者を楽しませることを決して忘れなかった絵師が描いた作品、英一蝶・作『布晒舞図』。浮世の刹那に舞い上がった夢のひと時。 |