バックナンバー:

2005年4月16日 放送

 
 

 吉原では知らぬ人はいない、江戸きっての太鼓持ち。訳あって江戸から追放され、流転の人生を歩んだ絵師が描いた傑作が、埼玉県川島町にある遠山記念館に所蔵されています。

1年に1度、来館者の前にお目見えするかしないかという至宝、英一蝶・作『布晒舞図』。

1700年頃、元禄時代に描かれたこの作品は、右手に扇子、左手に白い布を持ち、布が地につかぬようにリズミカルに舞う“布晒しの舞”を描いたものです。

踊り子の足元や跳ね上がる振袖の様から、その舞の激しさが窺えます。踊り子の熱演に、囃子方も知らず知らず気が入ります。

三味線を打つ手が速くなり、歌い手は声を張り上げ、鼓を打ちながら威勢良く声をかけます。興奮のあまり思わず腰が浮く、我を忘れるほどの舞の宴。

 



一蝶は庶民の生活を軽やかなタッチで生き生きと描写し、大名から町人にいたるまで広く愛された絵師。

『朝とん曳馬図』は朝焼けの中、童が馬を引きながら橋を渡ってゆく姿を淡い墨で柔らかく描き、見る者の心をホッとさせてくれる作品です。

『雑画帖』ではいたずらな子どもたちが不動明王に挑む、明朗かつ軽快なユーモア溢れるひとこまを描いています。『狙公・盃廻図』では皿回しに、猿回し。北斎も広重もいなかった時代に、一蝶は明るく楽しい風俗画を描いていました。一蝶が活躍した元禄という時代は、歌舞伎や浮世絵など、庶民文化が華やかに咲き始めた時代でした。

1652年、英一蝶は京都で医者の息子として生まれました。若い頃、江戸にやってきた一蝶は、絵の世界に興味を持ち始め、狩野派の門を叩きました。権力者お抱えの狩野派の絵師たちは、豪華絢爛にその権力の偉大さを示していました。彼らの巧みな技法を習得しながらも、一蝶はその世界に飽き足らなくなります。浮世又兵衛と呼ばれた岩佐又兵衛は、派手な色彩と躍動感溢れる描写力によって古典の世界を庶民に親しみやすいものにし、菱川師宣はその艶やかな美人画で、江戸で圧倒的な人気を誇った絵師。その二人以上に庶民にも楽しめる絵を描く。それは若き一蝶の高らかな宣言でした。

 一蝶は絵師でありながらも遊廓に通って太鼓持ち、いわば男芸者をしていました。彼にかかると客たちはついついお金を使ってしまう。それほど一蝶はもてなし上手だったといいます。そして彼の絵も、見る者を楽しくもてなしてくれました。『一休和尚酔臥図』は、偉いお坊さんも酒屋の前で酔いつぶれるという、一蝶ならではのユーモラスな作品。

『吉原風俗図』では慣れ親しんだ吉原の風景も描いています。太鼓持ちの一蝶だからこそ描けた、生き生きとした人間劇場。

そして『布晒舞図』では、思い切りのいい、きびきびとした曲線を組み合わせ、舞の軽やかさを表現しています。晒しの白と着物の赤の鮮やかな対比が、艶やかさを生み出し、着物には金色も使われています。

しかし、振袖に塗られたはずの顔料は剥がれ、足元の着物の赤はところどころ消えかかっています。じつはこの絵は、不条理な社会に翻弄された一蝶の苦境を物語っていました。

 

 



将軍・綱吉の命により、幕府が打ち出した「生類憐れみの令」。人よりも犬の方が尊ばれる元禄社会は、まさに不条理な世界でした。

一蝶もこの混迷した時代を生き、そしてその不条理の犠牲者となります。一蝶は当時流行した流説「馬のもの言う」を広めた罪で島流しの憂き目に遭います。この流説は馬や犬、鳥がこんな良い社会はないと言い合うという話。すぐに真犯人は捕まったが、一蝶が解放されることはありませんでした。一蝶は太鼓持ちとしてあまりにもてなし上手だったため、大名に浪費を重ねさせ、なかには吉原の遊女を身請けしてしまった大名もいたといいます。幕府はそんな一蝶にあらぬ罪を被せたのでした。1698年、一蝶46歳の時、三宅島へと島流しになります。

 江戸時代、島流しは死刑に次ぐ重罪人に科せられた刑でした。一度流されれば、二度と戻れない…。島の住民が行う耕作や漁の手伝いをし、何とか食いつなぐ者もいました。しかし、餓死する者も少なくありませんでした。そんな流人生活の中、それでも一蝶は絵筆を捨てることなく、華やかな世界を描き続けました。

 流人たちは年に数回、親類からわずかな生活物資を送ってもらうことが許されていました。そんな時、一蝶は絵の具を送るように頼み、未だに自分の絵をひいきにしてくれる江戸の愛好家たちのために絵を描きました。そのうちの一つが『布晒舞図』でした。上等な絵の具は手に入らず、安い絵の具すら惜しむように使わなくてはなりません。それでも金色まで使って、着物に華やかさを添えた。吉原で、元禄という時代を肌で感じたからこそ描けた臨場感溢れる一枚。

三宅島とともに島流しの場であった新島にも、一蝶の作品が残されていました。

元禄時代、2艘の帆船を持っていた新島に住む梅田家は、江戸と伊豆諸島間を航行し、物資や流人を運んでいました。その時に一蝶と出会い、のちに絵の具を江戸から三宅島へ送ったといいます。

一蝶は世話になった梅田家が火事で焼けた際、福が舞い込むようにと『七福神図』を送ったといいます。一蝶が日々食いつなぐために描いた、猟師たちが喜ぶ縁起物や神仏の絵は100点以上にも上ります。そんな日々を送り続けたのち、奇跡のような出来事が起こります。1709年、綱吉の死によって生類憐れみの令が廃止され、それに関する罪状であった一蝶は流人生活を赦されたのです。もう踏むことはないと思っていた江戸の地へ戻ったのは57歳の時。そして失われた時を取り戻すかのように、数々の大作を手掛けます。

  人気絵師として名実ともに復活した一蝶は、それでも遊廓に足繁く通ったといいます。武士を相手に太鼓持ちをしていたからこそ島流しになりました。だから今度は商人相手に太鼓持ち。一蝶は73歳でその生涯を閉じるまでエンターテイナーであり続けました。不条理な社会に翻弄されながらも、見る者を楽しませることを決して忘れなかった絵師が描いた作品、英一蝶・作『布晒舞図』。浮世の刹那に舞い上がった夢のひと時。
   
英一蝶「布晒舞図」

↑Top