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2005年5月28日 放送

 
 

画像京都大原の情景を描いた土田麦僊(ばくせん)・作『大原女(おはらめ)』。

画像 大原女とは、 大原の里から農作物を売りに行く娘。

画像木陰で休む農家の娘たち、周りにヤマブキやタンポポの黄色い花が描かれ、

画像 遠くに集落がある。

画像線を使って大胆にデフォルメされた木の葉も印象的です。

画像日本画でありながら西洋の香りが漂う不思議な1枚です。


土田麦僊は大正から昭和にかけて、京都の日本画をリードした男。麦僊といえば舞妓とも言われ、代表作『舞妓林泉』は切手にもなっています。

画像細密画のように克明に描かれた舞妓の着物と顔、そして装飾的な背景の日本庭園。

画像どこかルネサンスの人物画を彷彿とさせます。それまでの日本画に挑戦するかのように、この絵と『大原女』は同じ頃に描かれました。




麦僊は16歳の時、破門覚悟で寺を飛び出し、京都の画塾で絵を学び始めました。病で一時帰郷し、17歳で再び京都に出てきた彼は竹内栖鳳(せいほう)の門下になります。
ヨーロッパ帰りの栖鳳は、円山四条派の写実と大胆な構図が特徴でした。

画像「形から入って、感覚を写す」という師の教えのもと、麦僊は徹底的に写生を学びます。

画像そして入門からわずか4ヵ月で京都の展覧会に入選するのです。

麦僊が画家になったのは、「日本画」というジャンルが生まれた明治時代。それまで日本画という言葉はなく、日本には日本古来の絵画がありました。飛鳥時代の壁画、平安時代の仏画、狩野派に代表される障壁画。狩野派は桃山時代から約400年間、日本の絵画の手本とされていました。そして20世紀に入り、京都で新しい日本画が生まれます。
麦僊ら若い画家が動き出し、国画創作協会を設立しました。
幻想的な人物画の村上華岳、独特な風景画の入江波光、透徹した写実風景画の小野竹喬。流派やジャンルにとらわれず、芸術そのものを追求するのが彼らの信念でした。




画像若き麦僊の手本は、印象派の画家でした。20代半ばで描いた『海女』にはゴーギャンの野性、

画像『湯女』にはルノワールの官能が窺えます。

洋画に学んだ作品は、人々の注目を集めました。しかし麦僊には、物まねではなく芸術の本質を見極めたいという迷いがありました。
京都画壇は、若きリーダーとして麦僊に大きな期待をかけます。それは喜びであり、大きな重圧でもありました。

画像 新しい日本画を生み出すために1921年、麦僊はヨーロッパに向かいます。

画像フランス、イタリアを旅しながら、彼は日本画や洋画という枠を捨て去っていきます。

そしてイタリアに残るルネサンスのフレスコ画に出会いました。麦僊はフレスコ画に、素朴な美しい線を見ました。線こそが絵画の原点だと確信します。
1923年、帰国した麦僊は『大原女』を描き始めます。木々や草花に囲まれて憩う、3人の娘たち。彼はデッサンと彩色を何度も繰り返しました。

画像 1年経った頃、麦僊は下図を展覧会に出品します。画家が完成していない絵を出すのは異例なことです。

画像しかし、この下図は京都画壇を唸らせました。麦僊はヨーロッパで確信した線を見せたのです。




画像そして1927年、4年の歳月をかけて『大原女』が完成します。麦僊の描いた線は細く、繊細で鋭い。「鉄線描」と名付けられた、まっすぐ迷いのない線です。

そしてマネの『草上の昼食』を思わせる構図、ルソーのような鮮やかな色彩の背景。

画面奥の平面的な里から広がる遠近法の風景、手前には平面描写の大原女と木々。不思議な感覚を覚える絵です。これが、麦僊が獲得した西洋と日本の融合、新しい日本画でした。

これから自らの画境を拓こうとする時、麦僊は膵臓ガンに倒れます。享年49、稀代の日本画家の道半ばにしての終焉でした。

画像京都国立近代美術館に土田麦僊『大原女』はあります。新しい日本画を模索しながら、西洋の絵画に美の真実を求めた麦僊がついに行き着いた答え。

それは古今東西を問わず、絵の原点は線だということでした。混沌とした京都日本画壇に現れた革命児、土田麦僊の『大原女』は日本画に新しい息吹を与えた1枚です。
 
   
土田麦僊 「大原女」

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