大阪随一の繁華街・ミナミの島之内で1887年、楢重は生まれました。家業は一子相伝の膏薬「天水香」の製造販売、楢重は典型的な大阪の“ぼんち”
(お坊ちゃま)でした。少年時代は歌舞伎や浄瑠璃の芝居小屋、見世物小屋に囲まれて過ごします。
しかし彼は、のんきで陽気、明る過ぎる大阪が嫌いでした。楢重は実家の跡を継がずに、東京の美術学校に進む決心をします。
大阪脱出は1907年、その2年後に楢重は東京美術学校西洋画科に入り、黒田清輝の洋画塾「白馬会」にも通います。当時の黒田清輝は洋画界のドン、印象派の影響を受けたいわゆる外光主義が主流でした。影は黒でなく紫色だと教えられても、楢重にはそれが納得できません。結局、卒業とともに彼は大阪に帰り、アトリエを借りて文展突破を目指します。
2年後、野田重子と結婚した楢重は、子どもにも恵まれてさらに制作に没頭します。しかし文展は4年連続落選。黒田清輝は文展審査でも“最後の審判”を下す人物でした。
楢重は文展での成功を夢見る一方で、やりたいことは微妙にずれていました。そして反骨を込めて『Nの家族』を描きます。モデルは子育てに疲れ気味の妻と、2歳になろうとする長男、自分自身。
友人で小説家の広津和郎は、楢重の絵は二科展に出品するべきだと勧めました。二科展の新人賞である樗牛賞を、楢重は初出品で受賞します。31歳、遅咲きのデビューでした。
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