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2005年6月18日 放送

 
 

画像大阪に生まれて、大阪で生涯を終えた画家・小出楢重。『Nの家族』は画家自身の家族の肖像です。無邪気な一人息子、なぜか不機嫌そうな妻、煙草をくわえ冷ややかにこちらを見つめる極端に面長の男。重厚な質感、抑えた色調の原色が画面を覆う。しかしどこか幸福感のない、ちぐはぐな印象があります。

画像当時の“N氏”は文展(文部省展覧会)に連続して落選中、不幸のどん底でした。しかし『Nの家族』が、無名だった大阪の貧乏画家の人生を大きく変えました。小出楢重は、後に「東の劉生、西の楢重」と呼ばれ、岸田劉生と並んで近代画家に大きな足跡を残します。




画像大阪随一の繁華街・ミナミの島之内で1887年、楢重は生まれました。家業は一子相伝の膏薬「天水香」の製造販売、楢重は典型的な大阪の“ぼんち” (お坊ちゃま)でした。少年時代は歌舞伎や浄瑠璃の芝居小屋、見世物小屋に囲まれて過ごします。

画像しかし彼は、のんきで陽気、明る過ぎる大阪が嫌いでした。楢重は実家の跡を継がずに、東京の美術学校に進む決心をします。

画像大阪脱出は1907年、その2年後に楢重は東京美術学校西洋画科に入り、黒田清輝の洋画塾「白馬会」にも通います。当時の黒田清輝は洋画界のドン、印象派の影響を受けたいわゆる外光主義が主流でした。影は黒でなく紫色だと教えられても、楢重にはそれが納得できません。結局、卒業とともに彼は大阪に帰り、アトリエを借りて文展突破を目指します。

画像2年後、野田重子と結婚した楢重は、子どもにも恵まれてさらに制作に没頭します。しかし文展は4年連続落選。黒田清輝は文展審査でも“最後の審判”を下す人物でした。

画像楢重は文展での成功を夢見る一方で、やりたいことは微妙にずれていました。そして反骨を込めて『Nの家族』を描きます。モデルは子育てに疲れ気味の妻と、2歳になろうとする長男、自分自身。

画像友人で小説家の広津和郎は、楢重の絵は二科展に出品するべきだと勧めました。二科展の新人賞である樗牛賞を、楢重は初出品で受賞します。31歳、遅咲きのデビューでした。




画像『Nの家族』には、実は多くのメッセージが込められています。テーブルの上にはホルバインの画集。世俗的で冷徹な肖像を描いた、16世紀のドイツを代表する画家です。これは一説によると、主観的な情緒の画家デューラーに傾倒していた岸田劉生への対抗だといいます。東京で売出し中の若手人気画家への挑戦状です。

画像画集には別の意味もあったとされます。ホルバインの絵には、視点を斜めにすると頭蓋骨が浮かび上がるものがあります。楢重の長すぎる顔は髑髏を思わせ、そこからメメント・モリ(死を思え)と連想される。病弱で骨人というほど痩せていた楢重は、残された時間を走るしかありませんでした。

画像洋画家として自信を深めた楢重が、憧れのパリへ向かったのは33歳の時。しかし僅か半年の滞在で彼は帰国します。楢重は、日本人が描く油絵を確立しなければと考えました。

画像帰国後、楢重が夢中で描いたのが裸体。後に「裸体画の楢重」と評判となるモチーフです。彼の裸婦は顔がないか、あってもいい加減な描き方です。楢重の興味は肉体の立体感、微妙な色調、人体の構成にありました。顔の表情は邪魔なものに過ぎません。ここにも、納得できるもの以外は描かないという楢重独特の反骨が顔を出します。




画像やがて楢重は体調を崩し、急激に衰えていきます。1930年、芦屋の裏庭から見た風景を描いた『枯木のある風景』が絶筆となりました。高圧線に描かれた何かの影は、死を目前にした骨人が晴れた空へ昇っていこうとするかのようです。地面の枯木は、残された肉体にみえます。

画像小出楢重は大阪を脱出しようとして、生涯果たせなかった画家。しかし楢重の目は、大阪を越え、東京を越えた遥か遠くを見据えていました。そして彼は死を見つめ、家族を見つめます。『Nの家族』は、現実と空想の狭間に身を置いた画家・小出楢重の1枚です。

 
   
小出楢重「Nの家族」

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