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2005年7月2日 放送

 
 

画像ヨハネス・フェルメール作『真珠の耳飾りの少女』は単に美しいだけでなく、謎めいた魅力を隠す絵画です。暗闇の中で光を浴びて、こちらを見つめる少女。頭には高貴な青色ラピスラズリのターバン、耳には真珠の耳飾り。つややかな唇が、何か言いたそうに軽く開きます。後ろから呼び止められ、振り返ったような瞬間の姿です。その視線を浴びた観客は不思議な感覚を味わい、無垢な眼差しにたじろいでしまうといいます。

画像オランダで一番美しいと呼ばれたデルフトの街で1632年、フェルメールは生まれました。旅館を営み、画商の仕事を兼ねながら、フェルメールは絵を描いていたといいます。彼は43年の生涯に、わずか30数点の絵を残しました。

画像初期の作品『眠る女』は、居眠りする女性の無防備な姿。光の当たり方から、観客は窓の外から女性を覗くような視点に立たされます。フェルメールは、作品をどう見せるかに細心の注意を払って緻密な計算をしているのです。

画像『窓辺で手紙を読む女』は寝室のカーテンの陰から、『恋文』はドアの隙間から、観客はまるで日常に潜む一瞬のドラマに立ち会う傍観者のようです。しかし『真珠の耳飾りの少女』ではなぜか、絵を観る側と、観られる側との視線とがぶつかってしまいます。この絵はフェルメールの作品の中でも、異色の存在です。




画像1994年の『真珠の耳飾りの少女』の修復に携わったヨルゲン・ワドゥム氏。彼の証言によると顔の部分の下塗りは、通常は仕上げに使う光沢のある顔料だといいます。こうして、まるで生きているかのような精緻な肌が描かれました。

画像また服飾史の観点からマリケ・デ・ウィンケル氏は、当時のオランダにはターバンを巻く習慣はなかったと語ります。男性のものであるターバンを女性が巻く姿は、おそらく実際には見られなかったのではないかといいます。

画像映画カメラマンのジュール、ファンロデン、ステインホーフェン氏は、フェルメールの描いた光に驚きました。夥しい照明器具を用いても、絵と同じ光を作ることは不可能なのです。矛盾する光は、観る者の視線をある一点、少女の眼差しに集中させます。

画像生きているような精緻な肌、オランダにはなかったターバン、作為的な光。なぜ、フェルメールはこの絵を描いたのか。そして少女は誰なのか。




画像『真珠の耳飾りの少女』によく似た絵があります。フェルメールより65年ほど早く、17世紀初頭に描かれたグイド・レーニ作『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』だ。ローマの貴族の中でも指折りの名家に生まれたベアトリーチェの不幸は、極悪非道な父を持ったことでした。美しい娘に成長したベアトリーチェを、父は暗い欲望のはけ口にしました。絶望から逃れるため、彼女は父親を殺害します。

画像そしてローマ市民の深い同情と悲しみを受けながら、22歳のベアトリーチェは断頭台に立ちました。絵の中で、この世に別れを告げるかのように振り返るベアトリーチェ、髪はまとめてターバンで巻かれています。フェルメールは果たしてこの絵の存在を知っていたのでしょうか。

画像フェルメールが描いた『青衣の女』は、彼が生きていた時代を象徴しています。窓辺の光を頼りに手紙を読む女性、背景の壁にはヨーロッパの地図。16~17世紀にかけて、ヨーロッパでは通信の革命が起きました。郵便網が発達し、市民たちは遠く離れた土地の情報を手に入れられるようになりました。

画像ベアトリーチェの悲劇は、ヨーロッパ中に広まったといいます。さらに銅版画の普及によって、異国の作品を容易に目にできるようになっていました。フェルメールが『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』を知っていた可能性は皆無ではない。「北方のモナリザ」と呼ばれる『真珠の耳飾りの少女』は、「北方のベアトリーチェ」だったのかもしれません。




画像デルフトの市井の画家として、43歳の生涯を閉じたヨハネス・フェルメール。彼の『真珠の耳飾りの少女』はオランダ・デンハーグのマウリッツ・ハイス美術館で、謎めいた微笑みを浮かべています。

 
   
フェルメール「真珠の耳飾りの少女」

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