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2006年1月28日 放送

 
 

画像日本の江戸文化の華・浮世絵は、明治期になると、西洋の新しい絵画技術や印刷技術の流入によって、一気に衰退の一途を辿りました。

画像明治に生まれ、大正、昭和を生きた版画家・川瀬巴水は、我が国伝統の文化復興を目指し、江戸浮世絵でも日本画でも油絵でもない、新しい浮世絵版画「新版画」を生み出した人物です。

画像明治16年、東京の糸問屋の長男に生まれた巴水は、画家になりたいという夢を持ちながらも、家業に追われる日々を送っていました。やがて27歳のとき、家業を妹に託し、意を決して日本画家・鏑木清方の門下となり、新たな人生を歩むこととなります。

画像一方、横浜の貿易商で浮世絵の輸出の仕事に就いていた渡邊庄太郎は、日本国内で顧みられなくなった浮世絵が次々に海外へ流出していく光景に心を痛めていました。

画像このままでは日本の伝統芸術が消えてしまうと考えた庄太郎は、22歳で自ら版元となり、浮世絵版画の復興に努めることを決意します。

画像庄太郎は、日本人に限らず、外国人画家の作品にも目を向け、多くの浮世絵版画の生産に努めました。やがて、江戸風景版画の広重、北斎に代わる画家を探していたところ、巴水の風景画が目に留まります。

画像大正7年、庄太郎は巴水の作品を使って、リアルな存在感を醸し出す、新しい浮世絵版画「新版画」の制作を開始します。




画像巴水のデビュー作は『塩原おかね路』。作品の舞台である塩原は、体の弱かった巴水がたびたび療養で訪れた故郷のような町。

画像庄太郎は巴水の筆を忠実に再現させようと、彫りや摺りの職人たちに、従来の技術とは全く違うものを要求した。

画像この作品の最大の特徴は色彩のコントラスト。

画像それに加えて、凹凸のある輪郭線や、ざら摺りと呼ばれる新版画独特の技法を使い、土の感触を表現。

画像肉筆と見間違う程の力強い線や、山肌を打つ激しい雨もリアルです。新版画はまさにリアリズムであり、画家が見た風景そのものでした。

画像こうして巴水は庄太郎と組み、次々と意欲的に作品を生み出していきます。『三十間堀の暮雪』は、巴水が庄太郎と町を歩いていたとき、突然降り出した雪を描いてできた作品でした。

画像このとき庄太郎は、巴水が絵を描き上げるまでそっと傘を差しかけ、黙って見守ったといいます。

画像この作品は摺りの段階で、強く降る雪と、弱く降る雪のマダラな雪のリアルさを出すために、版木にヤスリをかけて表面を磨耗させるなどの工夫がされました。

画像庄太郎と巴水が求める“世界に認められる新版画”を作り出すためには、じつに優れた技術が必要だったのです。

画像しかし大正12年に関東大震災が起きると、庄太郎の版画店に収められていた作品の全てが焼失。巴水も大切な写生帖200を失ってしまいます。

画像それまでは理想の作品を作ろうとしてきた二人も、震災後は、売れ筋商品を優先せざるを得なくなります。そんな庄太郎の姿勢に反発して彼の元を去っていく画家たちも相次いだといいます。

画像しかし巴水とは変わらぬ友情を貫きました。昭和5年に描かれた『馬込の月』は、月明かりによって浮かび上がる田園風景の中にぬくもりを感じる完成度の高い作品で、海外で高く評価されました。

画像日本独特の温かみのある巴水の作品は、海外で評判を呼び、飛ぶように売れていきました。

画像巴水の風景画には、人が多く描かれています。傘をさして橋を渡る人。水辺を歩く幼い子供と老人。さりげなくそこにいる人々も、巴水にとっては大事な要素でした。

画像生前、「私が良い風景に接して感じたことを、同じように皆様にも求めたい」と語った巴水。風景を思うように人を思う巴水の眼差しが、多くの人の心を引きつけています。

画像浮世絵の衰退という大きな時代の流れに抗って、日本の木版画の復活を目指した庄太郎。その夢をまた自らの夢として新しい版画芸術の創造に挑んだ巴水。信じた道を突き進んだ二人の情熱は、まぎれもなく日本の近代版画隆盛の礎となりました。



   
川瀬巴水「新版画」

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