2006年6月10日 放送
東京・竹橋にある国立近代美術館に収められている『眼のある風景』は、日本のシュールレアリスムの一つの到達点と呼ばれた絵。 暗闇の中から凝視する眼は、観る者に緊張感を与えます。両脇には得体の知れない塊が異様な存在感を持って蹲っています。何が描かれているのか分からないのにリアルです。
この作品を描いた靉光は、1907年(明治40年)に現在の北広島町壬生で、農家の次男として生まれます。本名・石村日郎。 6歳のとき生活苦から父親の弟のもとに養子に出されます。とても可愛がられましたが、まだ幼かった靉光はいつも母親のことを想う日々でした。 いつしか絵を描くことに興味を持った靉光は、17歳のとき単身大阪で画塾に通い始めます。スタイルには強烈にこだわり、この頃から靉川光郎という画名を使い始めます。 服装や髪型には一切気を使わず、腰には大きな目覚まし時計をぶら下げていました。製作中は、ボロ布の代わりに頭髪で手を拭いていたため、髪はいつもカラフルだったといいます。 翌年上京し、谷中で下宿。ゴッホやルオーなど、傾倒する対象が目まぐるしく変わり、その度に作品のスタイルも変化していきます。 1930年頃、日本では洋画界がヨーロッパ絵画の洗礼を受けた時代。靉光も貪欲に西洋の息吹を吸収していきます。
しかし、どんなものでも器用に描けた靉光は、逆に自分のスタイルが分からなくなり、ひたすら悩む日々が続きます。そんな中、結婚しますが、その後もますます泣くほどに苦悩する日々が続きます。 自ら新しい作風を模索しようと、ロウやクレヨンを熱で溶かしてカンバスに塗りこめ、独特の世界観を創り上げます。しかし靉光は常に違和感を持ち続けていました。 やがて彼は自己の内なる世界へ深く沈みこんでいきます。自分の気に入った物を身の周りにたくさん集めるという行為にはまったのです。 芽の伸びたじゃがいも、枯れた草木、魚の骨、鳥の死骸、黒い石ころ、木の根っこ、工事用のランプ、電車の車輪など…。
ある時、靉光は上野動物園のライオンに興味を抱きます。下駄を履き潰すほど毎日通い詰め、スケッチをしました。 そして厚紙をライオンの形に切り抜き、天井からぶら下げ、壁に映る影の変化や光の屈折に興じて筆を走らせました。靉光は2年間に渡りライオンを描き続け、美術界から高い評価を得ます。 それでも満足できずに、靉光は混沌とした日々を送り続けます。そんな毎日の中で生まれたのが『眼のある風景』でした。 この作品はライオンを描いた連作と密接な関係があるという説があります。『眼のある風景』の左側の塊は上を向いたライオンの頭部に見え、右側は膝を曲げたライオンの足に見えるというもの。この作品の構成の土台となったのはライオンだったのかもしれません。
やがて戦争の時代に突入し、靉光は描きたい世界と時代との狭間で再び苦悩します。彼は中国東北部、旧満州国に出掛けます。 絵を描くためと、個展を開いて収入を得るためでした。靉光はこの旅で、写実性を強く意識した画風に挑戦し、自信を深めたといいます。 帰国後、靉光は自画像に取り組みます。『帽子をかむる自画像』『白衣の自画像』『梢のある自画像』の3点は、日本洋画の傑作といわれています。 1944年、召集を受けた靉光は自画像を友人に託して展覧会に出品。自らは戦地へと向かいます。翌年終戦を迎えますが、彼はアメーバ赤痢にマラリアを併発し、戻ることができませんでした。享年39歳。靉川光郎、絵さえ描ければよかった男でした。