日曜ビッグバラエティ

毎週日曜日夜8時から放送

バックナンバー

バックナンバー

2006年10月15日放送
家族が支えたワケあり繁盛店
肉親の死、離婚、倒産、閉店などワケありだからこそ、人の痛みがわかるお店ができたり人が集まるお店になったり。ワケあり超人気店の人間ドラマ。知って得する情報も満載。

苦渋の選択・生きがい・夢・家族のしあわせ、などワケありの人気店の人間ドラマ。
紹介するのは、開店直前に亡くなった息子の夢を受け継いで開店した南の島の居酒屋、18歳の時に家を飛びだして、離婚や会社の倒産、リストラなど追い込また破天荒おやじが始めたたこ焼き屋、一度は店を閉めた75歳店主がお客の強い要望で再開を決意したメニューの多い激安大衆食堂、不幸の連続だった酪農家が一念発起で作ったアイスなど。 亡き息子の夢を家族で実現!南の島の居酒屋オープン 沖縄 長男の夢だった居酒屋。しかしオープン直前に息子は急逝。息子の生きた証を残したいと、家族一丸となって6月24日居酒屋をオープンさせた。嫁いでいた姉も夫とともに実家に戻り、夫婦で居酒屋を経営、母親も悲しみをこらえて皿洗いなどの裏方をこなす。
幼い頃から活発で優秀だった息子。専門学校に通いながら居酒屋でアルバイトしていた息子が、いつしか自分の店を持ちたいと夢を持つようになった。学校を卒業しても居酒屋で働き続け、その姿をたくましく見守っていた父は、独立に向け、自分が銀行から融資を受け開業資金を工面した。父と息子は開業に向け準備を進めた。あとは1ヵ月後のオープンを待つばかりとなった2月9日、息子が同乗していた車に、逆送してきた車が衝突、息子は意識不明の重体のまま1カ月後に息を引き取った。
姉は弟の夢を叶えたいと自分が居酒屋をやることに。周囲の反対もあったが姉の夫も銀行をやめ、一緒に居酒屋を経営する。姉は8月に長男を出産。亡き長男の後輩たちや、姉の夫の実家の魚屋などの力を借りて、居酒屋を運営。父は毎日、店に顔を出している。姉夫婦には言葉にできないくらい感謝していると話す。 メニューが豊富で超人気店だった大衆食堂が再オープン! 山口 <リポーター:ミスターちん> 友光さん(75)は、食堂一筋40年。もともとある企業の社員食堂のほか、自分の食堂を2店舗経営していたが、最終的に「ひかり食堂」を残して他の店は閉めてしまった。最初はお好み焼き屋だった「ひかり食堂」だが、お客さんが「焼き鳥食べたい」「豚バラ食べたい」といろいろ注文するので、それに応えているうちに、気がついたら500種類ものメニューになっていたという。「日本一メニューの多い店」として、山口県だけでなく日本各地からお客さんがやってくる人気店だったが、70歳を過ぎて働きづめの人生を振り返り「もうやめてもいいだろう」と夫婦で決意、多くのお客さんに惜しまれて閉店した。
閉店して2年半、常連さんのカムバックを望む声と、高齢者の働く職場をつくることを目的に、お店を再開。平均年齢67歳という元気な店員さんたちと毎朝9 時から商売に励んでいる。現在のメニューは280種類。「500円あったら遊びにおいで、1000円あったら威張っておいで」を掲げほとんどのメニューは 200円~500円という料金で提供している。 苦境乗り越えお客さんに支えられて超人気店のたこ焼き居酒屋 大阪 <リポーター:清水よし子> 大原さん(61)は12人兄弟。18歳で好きな女性ができて家出。妊娠をきっかけに入籍。運送会社で働いた後、一時はトラック18台を持つ会社を経営するも、妻が浮気をして家出。娘たちの養育費としてマンションを売った金を渡して離婚。さらには、会社が倒産。その後、建築関係の仕事に就く。そんな中、税務関係の仕事をしていた現在の妻と知り合い一緒に暮らし始めた。しかし、一緒に暮らし始めて10年を過ぎた頃、会社をリストラされてしまった。何十社も面接にいくが、断られ続け、お金もあとわずかになってしまい「もう死ぬしかない・・・」と思った最悪の状況の中で、偶然見かけたのが、たこ焼きを買うために雨の中で並ぶ行列だった。「これやっ!!」最後の力を振り絞って始めたのがたこ焼き屋だった。これでもかと続く不幸を持ち前の明るさと、豪快で曲がったことのできない一本気の性格で乗り越えてきた。10代から70代の幅広い年齢のたくさんのお客さんに支えられ、お店はいつも満員御礼。そのおかげで、店がオープンして5年。借金は全部返済し、商売は順風満帆!
大原さんは、苦労をかけ続けた妻に、感謝の気持ちを伝えたいと考えている。 どん底状態から起死回生 注文殺到!日本一に輝くバニラアイス 兵庫 <リポーター:北斗 晶> 兵庫県のある町から少し離れた田舎にあるあいす工房「らいらっく」。酪農から加工、そして販売までの全ての工程を一環して経営するこだわりの店。オープン以来、全国各地から発注を受け雑誌でも“知る人ぞ知る人気店”として紹介されるまでになった。その人気の裏には、逆境からの起死回生、そしてオーナーである英之さんを支えた家族の“一致団結”があった。
英之さんが両親の営む酪農の世界に入ったのが20歳のころ。当時は安定していた酪農業だったが、その後牛乳にとってかわる飲料が次々に市場に出てきて昭和 61年度には牛乳の生産調整が始まった。そんな中、妻に続き母も亡くなり、父も引退。人手がなくなったために牛を70頭から20頭に減らすことになった。酪農経営はどん底状態。当時46歳の英之さんの就職先も見つからない。子どもたちのためにも何とかしようと、今までの酪農の経験をいかし、生乳でアイスクリームなどの加工品ができないかと考えた。大学時代の恩師に相談し、青森の企業で修行を積みアイスクリーム作りのノウハウを学んだ。そして2003年、田んぼだった場所にあいす工房をオープンさせた。設備投資に5000万円かけたが、家族の力を借りて、“知る人ぞ知る”超人気店となっている。 ド素人から超人気ラーメン店へ 家族が支えた愛情の一杯!くじら軒 横浜 <リポーター:志垣太郎> 「くじら軒」は、港北ニュータウンに開店して10年。行列は絶えることなく、今や首都圏を代表する名店となった。しかし店主の田村さん(57)は脱サラで、飲食店の経験すら一度もない。往来の多い場所でもなく、有名店の暖簾分けでもないこの店に、多い日には800人ものお客さんがやってくる。超人気店「くじら軒」、その人気のワケとは?
田村さんの生家は青果業。家の隣りがラーメン屋で隣りの子が食べるラーメンにチャーシューがいっぱい入っていたのがうらやましかったという。中学高校時代には渋谷のラーメン屋によく通ったという田村さん、ラーメン好きが高じて本格的にダシを取ったラーメンを3人の姉にふるまうほどになった。結婚後は家族に自慢のラーメンをふるまっていた。
バブル景気で仕事が忙しくなっていく中、病気になり会社勤めができなくなった田村さんは、母親と妻に「ラーメン屋をやりたい」と頼み込んだ。
お金がないので、母と妻と姉3人に手伝ってもらい1996年何とか開業にこぎつけた。店名はくじらが大好きな田村さんが「店が大きくなるように」という思いを込めて名付けたのだという。今では本店の外に、全国で6店舗にまでなった。