JAPAN☆ALL STARS 認定者リスト

2009.7 過去の放送はこちら:
7/31 :: 小林 一夫(こばやし かずお) 最先端の大ヒット商品を任される日本が誇る職人技
新潟県燕市、田んぼのど真ん中にある小さな町工場。そこに、日本政府が国を代表する職人として、胸を張って海外に紹介する職人がいた。みがき職人、小林一夫65歳。
小林の手にかかれば、くすんでしまったステンレス品など、見違えるほどピッカピカ。ある時、海外のハイテク商品を扱う超有名社から、ある商品を磨いてほしいという依頼が舞い込んだ。ハイテクに無頓着な小林は当時、その商品の事を聞いてもピンとこなかった。しかし職人として、依頼者のこだわりに最大限に応えた。のちに、この商品は世界で1000万台売れる大ヒットとなった。スタイリッシュなデザインが特徴のiPod。 実は、このiPodのピカピカな裏面は、小林の手によって手作業で磨かれていたのだ。アップル社は、シンプルで高級感のあるデザインにこだわり、裏面を鏡の様にピカピカに仕上げ、角は緩やかなカーブを描く事を要求。この高度な技術はアメリカにはなかった。そこで白羽の矢が立ったのが、手作業で磨く技術を持った日本の職人、伝統工芸師に認定された小林だった。iPodのスタイリッシュなデザインの裏に潜むのは、日本の職人の技だった。
7/31 :: 杉山 弘之・輝行兄弟(すぎやま ひろゆき・てるゆき) 世界初のしゃぼん玉ショー
畑にかこまれ、遊ぶ場所もあまりなかった子供時代、祖父母が麦わらを使って見せてくれたしゃぼん玉に魅せられ、しゃぼん玉とともに半世紀を過ごした兄弟、杉山弘之・輝行。しゃぼん玉は歴史が深く、かつての研究者は表面張力や光の実験にもしゃぼん玉を使っていたと言われている。杉山兄弟は、このしゃぼん玉を使ったショーを展開。幼い頃から誰しもしゃぼん玉に触れる機会は多々あるが、これを仕事にする人はほとんどいない。空間の条件(温度、風、埃など)によって大きく左右されるデリケートな部分がネックとなり、職業として続けていく事が困難なため、続けられないのだ。しかし杉山兄弟は、これに2人で取り組んできたからこそ、50年以上もの間続けてこられたと言う。「子供たちに夢や希望を与えられたら嬉しい。どんなことでもいいから、純粋にまっすぐ取り組む心を持ってほしい。しゃぼん玉は子供だけでなく、大人も目を輝かせてくれる。親子で簡単に楽しめるので親子の繋がり、コミュニケーションになってくれたら嬉しい。」と言う。かつてはギネス記録に挑戦したり、海外のイベントに出演したりしていたが、現在は、保育園、幼稚園、小学校、養護学校、老人ホームから多数依頼があり、子供から大人まで純粋に楽しめるショーを行なっている。
7/31 :: 梅林 正直(うめばやし まさなお) タイのケシ畑を梅林に
1979年、初めてタイを訪れ、以後、70回以上に及ぶ訪タイ。アヘンの生産地として知られる『黄金の三角地帯』で、私財を投じ、農業支援を行なっている梅林正直75歳。1995年、土壌学が専門で、大学教授だった梅林がタイを訪れた際、「標高1500mのタイ北部の山岳地帯で、ケシに代わる作物が栽培できないか」と相談を受けた。政府からケシ栽培禁止令が出ていたのだ。村では桃やコーヒーなどを試作したが、病虫害に見舞われ、うまくいかなかった。梅林は、梅栽培を提案。梅は高地に適し、加工しやすく、塩漬けなどで保存がきくので運搬もしやすい。村人たちは半信半疑だったが、梅林は「定着すれば、村の収入源になる」そう説く梅林の熱意に村長が動いた。畑のケシを取り払い、梅の苗を300本植えた。1997年、苗が4,5mほどに伸びているのを見て「やってみる価値はある。人生をかけてみよう」と決意した。近年ではマナオ(ライム)の植樹もしている。苗の購入代金など年に150万円ほどかかる活動費は日本での講演料などで賄い「自分の頭と体とお金を使って汗を流すのがボランティアの原点」と語る。 長年にわたりタイ北部山岳地域での植樹ボランティアに従事し、タイにおける国際協力を推進した功績が認められ、2000年、観光省よりタイ国友好賞、2008年、外務大臣表彰が贈られた。
7/24 :: 田村 一舟(たむら いっしゅう) 漆と金の魔術師
加賀蒔絵師、田村一舟。漆器に金の模様や絵柄を作り出す日本独特の漆技法、蒔絵。田村は日本の四季を漆の中に繊細に描く職人として日本はもとより、世界にも認められた人物。アクセサリーや茶器に金の絵柄を描くことをはじめ、宝石箱や盆など数多くの作品を作り出した。中でも、世界が絶賛した作品が、万年筆に蒔絵をあしらったもの。円柱状になっている万年筆はただでさえ絵を描くのが困難。しかし、田村はルーペを装着しながら肉眼では見ることが困難な細かい部分に丹念に繊細に筆を入れていく。この万年筆には破格の1500万円という 値がついた。
7/24 :: 杉浦 勝男(すぎうら かつお) ハリウッドスターが愛する料理人
ビバリーヒルトン総料理長杉浦勝男。19歳で料理人になることを決意し、北欧に渡り、その後ドイツ、フランス、イギリス、全米の著名ホテルで腕を磨いた。1989年には全米シェフトップ10の1人に選ばれ、ホワイトハウスから直接料理の依頼がくるコネクションも築いた。現在はビバリーヒルズにあるホテル、ビバリーヒルトンで総料理長を務めている。今年一月に行われたゴールデングローブ賞のパーティーではハリウッドスター達を相手に至極の料理を振舞った。
7/24 :: 杉本 八郎(すぎもと はちろう) 世界中のアルツハイマー病患者を助けた日本人
杉本は、アルツハイマー病の進行を遅らせ、症状を改善させる治療薬「塩酸ドネペジル」を開発した。その功績から1997年“薬学のノーベル賞”ともいわれる英国ガリアン賞特別賞を受賞した。
高校卒業後、製薬会社に入社した杉本は、新薬開発部門の一研究員として働いていた。母が認知症になったことをきっかけに、当時治療薬がなかったアルツハイマー病の治療薬開発を始める。1000を超える化合物の合成、試験を繰り返しついに治療薬たりえる「塩酸ドネペジル」の開発に至る。その後「塩酸ドネペジル」は世界中でアルツハイマー治療薬として使用されるようになった。
現在杉本は、京都大学薬学科の教授としてアルツハイマー病の根本的な治療薬開発に情熱を注いでいる。

7/17 :: 福田 敬子(ふくだ けいこ) 柔道創始者・嘉納治五郎が頭を下げた、世界柔道の母
96歳にして、現役の道場師範。
柔道創始者・嘉納治五郎の直弟子であり、女子選手で唯一の9段保持者。
21歳の時に柔道を始め、柔道普及のためにアメリカに渡って42年、各地で柔道を指導し、普及に貢献した。
その功績が認められ、サンフランシスコ市や日本政府から賞を授与。
今なお、福田さんの指導する「形」を学ぼうと、世界各国から柔道家たちが 集まってくる。
7/17 :: 菅野 敬一(すがの けいいち) ハリウッドの大物も愛用するアルミ製ケースを製作した板金職人!
本職は精密板金工。自社で製作していた飛行機内部に使われる丸い穴のあいたアルミの構造体にヒントを得て、オリジナルの鞄を製作。 最初は自身のためだけに作った物が、口込で評判を呼び、 製作を依頼する声が殺到。鞄や名刺入れなどアルミ製のケースを製作する ブランド「AERO CONCEPT」を立ち上げた 独特な物づくりの哲学で質の高い製品を作り続けている。
7/17 :: 小圃 千浦(おばた ちうら) 日本画で人々の心を救った画家
アメリカで日本画の真髄を教え続けた画家。
日本画壇で天才と呼ばれた小圃は、1903年に18歳にしてアメリカへ渡る。
42歳の時にカリフォルニア大学バークレー校で行われた、日本画の デモンストレーションが高く評価され、日本人で初めて、アメリカの大学の 美術講師となる。
1941年、太平洋戦争が開戦すると西アメリカに住む約11万人の日系人が 強制収容された。小圃は、その収容所で美術学校を開設し、劣悪な環境に苦しむ 人々の心を救った。その美術学校には、常時、600人もの生徒が通っていた。
小圃の死後、その功績と実力が認められ、カリフォルニア大学バークレー校には 「オバタゲート」と呼ばれる日本庭園が作られた。
7/10 :: 祖母井 秀隆(うばがい ひでたか) フランスサッカーチーム『グルノーブルフット38』GM
日本でも大人気のヨーロッパサッカー。そこにチーム強化を任される1人の日本人がいた。フランスサッカーチーム「グルノーブルフット38」のゼネラル・マネージャー、祖母井秀隆氏。1995年からジェフユナイテッド市原・千葉のチーム強化に貢献し、2002年にはイビチャ・オシム氏を日本に呼んだ人物である。グルノーブルは1962-63シーズン以来、2部・3部・4部リーグを低迷しているチームだった。しかし転機が訪れる。2007年、祖母井氏グルノーブルGMに就任。サポーターは「死ぬ前にもう1度リーグ1に昇格するのを見たい」と彼に言った。クラブオーナーや社長からチーム強化を託される立場である祖母井GMは、チームの裏側から選手・監督に至るまで、細かくチェックし改革を進めた。そして2007-08シーズン終了。グルノーブルは46年ぶりのトップリーグ「リーグ1」に昇格を決めたのだった。祖母井氏は、オシム氏がジェフの監督として日本に来る事を承諾してくれたその日、既に「日本に来るということは、いずれ日本代表の監督になるということです」とオシム氏に予言していた。
7/10 :: 内野 洋平(うちの ようへい) 世界を魅了するウッチースピン
幼少の頃からスポーツが大好きな少年は、やがて自転車に魅せられた。それはただの自転車ではなく、BMX(バイシクルモトクロス)。BMXは世界中の若者に人気で、レース競技は北京五輪から正式種目となっている。内野が始めたのはBMK「フラットランド」という種目。スケートでいうところにフィギュアにあたり、平らな地面を舞台にスピンやジャンプなどの技の難易度や独特性などを競う。高校3年で進路はBMXプロと話すが担任や両親は大反対。就職して空き時間でBMXの練習をし、2002年上京。半年後、日本選手権アマチュアクラスで年間シリーズ3位となりプロ昇格。2005年には日本チャンピオンに。同年、世界選手権にも出場し、史上最年少優勝の快挙を成し遂げる。この時披露した内野オリジナルの無限に回り続ける回転技「ウッチースピン」は世界中に広まった。その後、当時は前輪を軸にした演技が主流だったが、後輪の技を追求するべく、表舞台から姿を消す。2008年、アメリカで開催された世界選手権で復帰。後輪を使ったダイナミックな動きに斬新な技を多数披露し、優勝。現地雑誌には『サムライボーイ』と賞賛された。
7/10 ::八木 秀次(やぎ ひでつぐ) 世界の八木アンテナ
1953年、テレビ放送が開始された。世界中の建物には、同じ形のアンテナが取り付けられた。今日でも至るところで見られる。このアンテナを発明した人物が、日本人・八木秀次である。八木はまず無線電信に興味を持ち、取り付かれてゆく。大学教授となり、学生達の実験が元で、1926年、電波の強い指向性を発見。これが八木アンテナの誕生である。これは世界でも最先端の研究だった。1928年、世界で最も権威のある弱電関係の学会で指向性アンテナの論文を発表し高く評価された。しかし、八木の研究があまりに最先端過ぎた為、日本では評価されなかった。真珠湾攻撃の際、海軍少将はレーダー研究の重要性を否定。海外で大いに認められた世紀の大発明は、日本では受け入れられなかった。1942年、シンガポールで発見されたノートに「YAGI」という文字がしきりに出てきた。日本人が無視していたアンテナ技術は英米で研究が進み、高性能レーダーとして利用されていたのだ。やがて日本は敗戦。八木は心を痛めた。GHQにより教育界からも追放された八木は身を隠すように焼け野原の薄暗い土蔵に住んだ。6年後、教育界に復帰。翌年、テレビ放送が開始された。八木は、若い科学者を育てることに情熱を注ぎ、湯川秀樹や江崎玲於奈を後押しし、ノーベル賞受賞へと導いのだった。
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