赤と青 ⑥ (シリーズ物です)

【白い雲】

何で僕がリングに立たなければならなくなったかはもうわからない。とにかく代役であることは間違いない。しかし、見よう見まねでシャドーボクシングはするものの、スパーリングすらしたことが無い。恐怖に近い不安で額に汗が滲むのがわかる。相手は総合格闘家の船木誠勝選手だ。やるしかないのか?何か開き直ってきた。

目が覚めた。夢だ。

夢といえば、将来に思いを馳せるのも夢だ(かなり強引なもって行き方だが)。
貧しい家庭の子がボクシングを始めて、果ては日本で世界王者になるなんて夢のような話だ。そう、夢は夢なのだ。できるわけが無い。現実、そんな余裕など無いのだ。
デン少年は出稼ぎのためにバンコクに出て、稼ぎながらわずかな余裕ができたその金でボクシングを始めたのだ。元世界王者カオサイ・ギャラクシーにあこがれた少年はすぐにその才能を発揮した。

「稼げる・・・」

勝利を重ねるデンはアマチュアで18戦17勝、名門チタラダジムからプロデビュー後も5戦5勝と勢いをつけた。

もくもくと走るだけのロードワークは孤独だ。シッシッハッハ・・・呼吸音だけがリズム良く自分を取り巻く。毎日違う変化もあれば毎日同じものもあって、そんなものを見ることが孤独なロードワークの密かな楽しみになったりするものだ。

「サワディー・カップ(こんにちは)」
また居た。・・今日も。明日も居るかな。

多分日本の女性だ。このひとも毎日走っている。ダイエットかな・・・・。

ある日チタラダジムに戻ったデンは汗でぐっしょり髪を濡らしたその女性を見つけた。
「サワディーカップ」
運命の出会いだった。
程無く二人は大人の付き合いを始め、00年12月夫婦となった。妻タカコの祖国日本に行くことも良いかもしれないと、デンは思い出した。ボクシングのためではなく、結婚したからだ。
さあ、いざ異国へ。しかしタイ人のデンにそうは仕事は無い。何よりも確実に稼げる可能性があるのはやはり拳闘であった。

少年から青年となり、家庭を築いたデンはこうして日本のジムと契約した。
01年3月日本デビュー戦を1ラウンドKO勝利。
2戦目、元世界王者ニコ・トーマスに3RKO勝利。その実力を世界に知らしめた大きな1戦となったこの試合が自身のプロ7戦目だ。

この頃だろう。世界ランクに名を連ねるようになったところで、故郷の新聞が「デンはタイの心を忘れた」と書きたてた。純朴な青年デンはひどく心を痛めた。契約でもめたことをこの期に及んで蒸し返しているのだ。この純朴な青年、いや少年だった彼には契約のことなどわからなかった。チタラダジム時代も知らぬ間にマネジメントが代わっていた。お金は欲しい。しかし彼が手にする激闘の報酬とは別に、多額のお金が頭上を飛び交っていただけなのだ。

自分が巻き込まれたことは辛いことだが、デンの信念は変わらない。
「自分が稼いで家庭を養う。激闘に身を投じて故郷の実家を助ける。」
「僕みたいに貧しさで辛い思いをする子供をもう出したくない」

流れる雲に、故郷の家族の笑顔を思い出しては空が滲んでゆく。
この空はタイにつながっているんだ。
僕の頭の上には、お札なんか飛んでいない・・・。
澄み切った青空だけだ。


つづく