カブキの世界

「暮れなずむ街」
間違って使う人も多いが、中々暮れそうで暮れない空のことだ。
早いもので、千代田線のホームから上がって最寄り駅の出口からみえる景色はまさに暮れなずむ街で、海援隊を頭にこだまさせながら腐ったミカンの方程式を思い出すのである。

しかしこの日の物語は、まだまだ日が暮れるのが早かった冬のことだ。

地下鉄の出口を出るともう暗くなっている。
大規模マンションの1階にある我が家が見えてきた。中はマッチ箱だがこれでも僕にとってはお城だ。
電子ロックの扉の鍵は二つ付いていて一つづつ右に回した。

話は変わる、電子ロックのマンションキーをなくした先輩の話を思い出した。鍵の救急車なる仕事の人を呼んだそうだが、それがすごいのなんのと。まず、鍵がないと開かないロビーのガラス扉は、鍵もなく何かをドアのあたりにかざしただけで”オープン”だ。勿論そのときも企業秘密で教えてくれなかったそうだ。そして家の鍵・・・・10秒。「いくつ付いていてもなんでもないんですよ」とのこと。先輩は、正直防犯というものが怖くなったという。

さて、そんな心配もなく我が家のドアを開けた。
なにか跳ね上がる物体が、玄関から続くまっすぐな廊下の先に見えた。
人の影だ。

また跳ね上がる。躍動するような感じだ。いや、攻撃的にも感じる。

妻だ。しかも横蹴りを入れているのだ!。
トーラスキックだ!。あの伝説のプロレスラー、東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ”が一世を風靡したあの蹴りだ。
しかも定期的に放つけりは、部屋の奥がわ、そしてまたこちら向き。

やばい。妻が。
これ以上強くなりたいのか?

ザ・グレート・カブキは毒霧の元祖であるが、妻は主婦界きっての毒舌の使い手だ。これに体力技はまずい。

恐る恐る廊下を進んだ。
うなじの髪をしっとりと汗でぬらした妻が、ニタリと笑いながらこっちを見た。同時に、テレビ画面に気付いた僕がいた。

ビリーだ。ビリー・ザ・ブートキャンプ、話題のだ。
といっても当時はまだ話題ではなく、通販を見て妻と笑っていたあのDVDだ。

腹筋トレーニングのときもなぜか拳にバンデージを巻いているのが、逆にそれらしく見える。突っ込み所はたくさんあるのだがそれは、アメリカンなので許せる範囲だ。

アーモンドチョコのような大きな顔を黒光りさせたの男性が、英語でけしかけている。字幕でフォローしているが、一応伝わるものだと感心してしまった。

「きついか?」
「きつければ声を出せ」
「腕立てをしたいのか?」
「さあ燃焼させるんだ」
「ここはどこだ!?」
「ここはビりーズ・ブート・キャンプだ!」


これはまだ2月の話。
ブレイクする前に妻は手に入れていたのだ。

ほどなく僕も入隊したことは言うまでもない。
腹筋編は30分だがかなりきつい。

深夜12時10分。マンションの1階に、押し殺すような34歳男性の断末魔の叫びがこだましたと思われる。

ビリー、あんたは偉大だよ。
JALのハッピ着る資格ありだよ、絶対。
また今晩ヨロシクだ。