「高田馬場の決闘」と「赤穂浪士の討ち入り」――泰平を迎えていた江戸時代中期、武士の本分を示したこの二つの事件に、安兵衛は関わり、時の英雄となる。
四十七士の中でも一番の剣客で、主君の仇である吉良上野介を討つことを強く主張し、「江戸急進派」のリーダーとして、筆頭家老の大石内蔵助と鋭く対立したが、やがて志を一つにして、共に吉良邸に討ち入る。
越後新発田藩溝口家の家臣・中山弥次右衛門の長男として生まれる。
新発田城の櫓が失火で焼け、父がその責任を取らされ溝口家を追われたため、十四歳の安兵衛も浪人となった。弥次右衛門はこの直後に病死している。
十八歳で安兵衛は江戸へ出て、堀内道場に入門。天性の剣術の才で頭角をあらわし、堀内道場の四天王と呼ばれるようになった。剣術だけでなく、筆まめであり、討ち入りに至る経緯を「堀部武庸日記」に記している。この日記は、堀内道場同門の儒学者・細井広沢の手で編纂され、安兵衛の実像を今日に伝えている。
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