今回の新説が実証できれば、まさに世界的スクープ!! それは、これまで見つかっていない『クレオパトラの墓』が今もアレクサンドリアの地下に眠っている!?というもの。 エジプト考古庁ザヒ・ハワース長官の協力の下、アレクサンドリアの地下を大捜索、その謎に迫る。
しかし、大胆な新説はそれだけではなかった! ザヒ長官によれば、クレオパトラの墓は、あの古代世界最大の英雄・アレキサンダー大王の墓の近くにある可能性が高いというのだ!アレキサンダー大王はアレクサンドリアに埋葬されたことはわかっているが、その場所は未だ特定されていない。もし、ザヒ長官の言葉が本当なら、アレキサンダー大王の幻の墓の謎にも迫ることになるのだ。
それにしても、なぜ、クレオパトラの墓は、アレキサンダー大王の墓の近くに作られたのだろうか?
実は、その2つの墓の謎こそ、今回最大のテーマ
「古代世界最大の英雄・アレキサンダー大王と女王クレオパトラは、時を越え、運命の絆で結ばれていた!」
このことを何よりも雄弁に証明するものなのだ。
エジプト及びイタリア取材ロケのリポーターは栗山千明、スタジオなどでの解説は監修も手がける吉村作治教授。
今から5年前に発見された一枚のパピルス。そこには紀元前33年、クレオパトラが書いた文章が、署名入りで残されていた。美しい筆致で書かれた文字は、まさにクレオパトラの知性を物語っている。
アレキサンドリアは当時、世界最大の貿易港であると同時に、世界中から多くの学者が集まる学問の都でもあった。アレキサンドリアには、知の殿堂とうたわれた70万巻もの蔵書をもつ巨大な図書館を備えた学術研究所、いわゆるムセイオンがあったからだ。ここでは、アルキメデスやユークリッドなどがそれぞれの研究に打ちこんでいた。そのような知の宝庫で、クレオパトラは幼い頃からむさぼるように書物を読んでいたといわれている。7カ国語を自由に操ったという彼女の知性はまさにムセイオンの読書で培われたのだ。
そんなクレオパトラが図書館で学び心酔した人物こそ、クレオパトラの時代から300年前、この地をアレキサンドリアと名付けた、古代世界最大の英雄・アレキサンダー大王だった。エジプトにとって、アレキサンダー大王は、ペルシャの支配から開放してくれた英雄であった。また、アレキサンダーも、エジプトの豊さと、神であるファラオが現世ではなく来世を支配するというエジプトの信仰に深く感銘を受ける。中でもアレキサンダーが心惹かれたのは、エジプト史上最大の領土を築いたファラオ、トトメス3世。アレキサンダーはエジプトの風習に習い、自らエジプトのファラオとなった。王位を認められたアレキサンダーは、都として選んだのがアレキサンドリアだった。もともと小さな漁村だったこの町だが軍港としては最高の場所だった。アレキサンダーはさらに西へ軍を進め、やがて当時の世界のほとんどを手中に入れた。しかし、アレキサンダーの破竹の勢いは、紀元前323年、突然止まる。インド遠征の帰路、アレキサンダーはマラリアを発症し、32才の若さでこの世を去った。
アレキサンダーが急死すると、彼の築いた広大な帝国の後継者争いが勃発。その混乱の中で、当時エジプト総督を務めていたプトレマイオスは、故郷バビロニアへと運ばれるアレキサンダーの遺体を略奪、そのままエジプトに持ち帰り、埋葬したのだ。それにより、ファラオでもある大王の正当な後継者であることを民衆に訴え、エジプトをそのまま支配しようとした。こうして誕生したのが、古代エジプト最後の王朝、プトレマイオス朝である。
それから300年後、衰退の一途をたどるエジプトで、父プトレマイオス12世の死後、遺言により18歳となったクレオパトラは、13歳の弟プトレマイオス13世とともにエジプト共同統治者となった。しかし、プトレマイオス13世が幼いことを利用して後見人となった宦官が国家を思い通りに運営するため、クレオパトラを宮廷から追放した。
クレオパトラは、わずか3年で王位を追われ、現在のシリアに逃れ、砂漠の中で亡命生活を送った。そんなクレオパトラの運命を変えたのが、ローマの将軍、ユリウス・カエサルだった。ポンペイウスとローマで覇権を争っていたカエサルは、敗北すれば死が待つという後戻りできない状況で、国境の川・ルビコン川を渡りローマに攻め入り、さらにローマから逃亡した宿敵ポンペイウスを追って、エジプトに進軍した。ポンペイウスと決着をつけようと考えていたカエサルだが、プトレマイオス13世らがエジプトに助けを求めたポンペイウスを殺害、カエサルは無念の涙を流したという。
そんな中で、21歳のクレオパトラは、驚くべき仕掛けでカサエルに出会い、自分の虜にした。カエサルと共に現れた姉クレオパトラの姿に憤慨した弟プトレマイオス13世はカエサル軍と戦ったが、カエサル軍が圧勝、クレオパトラは再びエジプト女王の座に返り咲いた。そして、カエサルがローマの王(ファラオ)になることを望んだ。
クレオパトラは、カエサルの子どもを生んだ。名前はカエサリオン、カエサルの息子という愛称がつけられた。やがて、カエサルはローマに帰還、盛大な凱旋パレードを行った。そこにはエジプトから招いたクレオパトラと幼いカエサリオンも参加した。だが、ローマ市民は異国の女王に嫌悪感を持つだけでなく、共和制の伝統の中で独裁的なカエサルへ反感を持つものも増えていた。そして、紀元前44年、「ブルータス、お前もか…」この言葉を最後にカエサルは息を引き取った。ローマにいては命が危ないと、クレオパトラはカエサリオンを連れてすぐにアレキサンドリアに逃れた。
ローマではカエサルの後継者をめぐり2人の男が対立、カエサルの遺言状で養子となり相続人に指名された19歳の少年オクタヴィアヌスとカエサルの副官だったアントニウス38歳。クレオパトラが未来を託したのは、アントニウスだった。そのアントニウスからトルコ中央南部の港町タルソスに会いに来るように求められたクレオパトラは、特別に黄金で飾り立てた船で登場。さらにアントニウスを驚かせたのは、クレオパトラが片方の耳を飾っていた美しい真珠を酢の入った器の中に落とし、真珠の溶けたものを飲み干したのだ。それは1000人の軍隊を6カ月出兵させる戦費に匹敵するほど価値のあるものだった。その時クレオパトラ28歳。まさに美しい盛り。クレオパトラの魅力に取り憑かれたアントニウスは、クレオパトラの後を追うようにアレキサンドリアに到着、贅を極めた日々を送った。アントニウスがエジプトを去って半年後、クレオパトラは双子の男の子を出産した。
ローマに戻ったアントニウスは、ライバル・オクタヴィアヌスと和解協定を結ぶために、オクタヴィアヌスの姉と政略結婚させられた。そして、アントニウスはシリアを中心とする東方世界を、オクタヴィアヌスは西方世界を支配することになった。
それを聞いたクレオパトラもアントニウスに正式な結婚を強く要求し、アントニウスもそれを了承、一夫多妻を認める東方式の結婚式を挙げた。しかしこの結婚にローマが騒然となった。クレオパトラに非難が集中、一人ならずも二人もローマの将軍をたらしこんだ淫乱な魔女とののしられた。
アントニウスはローマ市民の支持を得るため再び東方に向かい、敵国アルメニアを征服、ローマの属州にすると宣言した。そしてクレオパトラのためアレキサンドリアで凱旋式を行ったうえ、さらにローマ東方領土をエジプトに与えると宣言した。これによりエジプトは、アントニウスを後ろ盾にプトレマイオス王朝全盛期の領土を復活。また、クレオパトラは、アントニウスに、カエサリオンをカエサルの息子と宣言させ、オクタヴィアヌスの姉とも離縁させた。
しかし、アントニウスとオクタヴィアヌスの対立が激化、オクタヴィアヌスの策略でアントニウスはローマの公職から追放され、オクタヴィアヌスはエジプトに宣戦布告した。そして紀元前32年、地中海を舞台した世に言う「アクティウムの海戦」は、オクタヴィアヌスの圧倒的勝利に終わった。
クレオパトラに残されたのは、エジプトの莫大な富とカエサルの息子・カエサリオン。
しかしオクタヴィアヌスは容赦なくクレオパトラを追い詰めた。そしてクレオパトラの莫大な財産とともにローマにクレオパトラを連れ帰り、凱旋パレードでさらし者にしようと決めていた。クレオパトラはそんなオクタヴィアヌスを巧みに欺き、最後にたった一つ残された自由、「死」を選択した。クレオパトラ39歳。
金銀の食器や貴重な貴金属など、数え切れないクレオパトラの遺産を手に入れたオクタヴィアヌスは、それをローマに送った。するとローマの貨幣価値が半分に下がり、金利も3分の2になった。まさにクレオパトラの遺産が、ローマに空前の好景気をもたらした。オクタヴィアヌスは、ローマ最初の皇帝となり、それから400年余りにわたって繁栄を極めるローマ帝国の礎を築いた。しかし、本当にローマの繁栄を作ったのは、誰あろう、クレオパトラ、その人であったのではないだろうか。
クレオパトラの墓に関して、様々な研究者によって多くの説がある中、「クレオパトラの墓は、アレキサンドリアの街にあると信じている。大きなビルが建ちすぎて発掘できないが、おそらく、まだ地下深くに隠されていると思う。アレキサンダー大王の大きな墓のそばに埋葬されているに違いない」というアレキサンドリア地下説をもとに、地下の貯水槽跡を捜索。また、エジプトの考古庁長官、ザヒ・ハワーズ博士はクレオパトラの墓と財宝に関する重要な情報を提示。
未だ見ぬクレオパトラの墓と財宝、更にアレキサンダー大王の墓に迫る。