■監修者・中島洋の深読み
中島洋 中島洋=マルチメディア総合研究所所長

1947年生まれ。東京大学大学院(倫理学)修士修了。73年日本経済新聞社入社。産業部で24年にわたり、ハイテク分野、総合商社、企業経営問題などを担当。1988年から編集委員。この間、日経マグロウヒル社に出向し、日経コンピュータ、日経パソコンの創刊に参加。97年-02年慶応義塾大学教授(大学院政策・メディア研究科特別研究担当)。02年-04年、国際大学(グローコム)教授を務める。現在、MM総研所長、日経BP社編集委員、国際大学(グローコム)主幹研究員などを兼務。


石油ショックの時代

 監修者の中島 洋が日本経済新聞社編集局に入社したのは1973年の4月。石油ショックの直前だった。日本経済新聞社はこの73年10月に日経産業新聞を創刊したが、監修者が入社したのはその準備で編集局が騒然としている中だった。1960年代から70年代にかけて日本の産業界は急速に実力を蓄えて官庁の庇護から脱皮しようという時期だった。経済情報は霞ヶ関の中央官庁を取材すれば分かると言う時代を超えて、民間の動きをどのように捉えてゆくかということが課題になってきていた。

 石油ショックが起こった73年10月は、民間企業を直接に取材する日経産業新聞が大きな役割をになって発足した、まさに、その月だった。もし、石油ショックがもう3週間早く起きていたら、日経産業新聞は創刊できなかった、というのが、当時の担当者たちの思いだった。石油ショックの勃発とともに起こったのが、新聞用紙の不足による割り当てだった。直前の実績を基にした割り当てだったので、日経産業新聞が創刊前だったら、割り当てゼロ、創刊は延期せざるを得なかったのではないか、と、先輩記者から聞かされた。

 強運というものがあるものだ。その後、石油ショック後の大不況の中で企業向けの新聞である日経産業新聞の悪戦苦闘が始まったが、これは短期間で終わった。程なく「マイコン革命」が起こり、日経産業新聞は「情報技術」を全面的に取り上げる専門紙として独走的な位置を確保し、今日まで続く情報技術による革命を促す先導役を果たすことができたのである。

 この間、それまで民間産業の中心だった非鉄産業が急速に力を失った。電力を多量に消費するアルミ精錬などの産業が国際競争力を失って日本国内では存続不能になった。重厚長大な産業は石油を基本にした安いエネルギーを基礎に日本国内に産業基盤を構築していたのだから、原油価格の高騰はこれらの産業の存立基盤を直撃した。ちょうど同じ時期に起こった為替レートの円高とあいまって、産業構造の大転換が始まった。石油価格の高騰はこうしたエネルギー価格高騰による「新(原油)価格体系」を基礎にした新たな産業体系への移行を促した。この大規模な産業構造の大変動を、日経産業新聞は機動的に捕捉し、日本産業界の歩むべき道を照らし出したと言える。監修者の中島 洋は、その日経産業新聞を動かす中心にいたことを誇りに思っている。

 今回の石油争奪戦を見ると、依然として、石油の重要性も失われていないことが良く分かる。次の時代の日本の飛躍は、情報技術に加えて、エネルギーを基礎にした産業群の活動に左右されそうな気配である。「エネルギー」にもう一度、注目してゆきたい。






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