< 第一部 道三・天下への野望 >
 
応仁の乱以後、京の都は荒廃していた。足利幕府の権威は墜ち、諸国には強豪がひしめき合い、戦国時代に入っていた。そこに、身分もなければ金もない乞食のような修業僧が「国盗り」を決意し、還俗した。ただあるのは才知と己への絶対的な信仰である。妙覚寺本山で「智恵第一の法蓮房」といわれた若者、名は松波庄九郎、のちの斎藤道三である。その庄九郎に天が味方をした。京の油問屋「奈良屋」の荷頭が青烏帽子に殺されたのである。庄九郎は持ち前の才覚で青烏帽子を倒し、奈良屋の主、後家のお万阿に面会する。お万阿は庄九郎に魅かれ、彼を入婿に迎える。奈良屋庄九郎となった庄九郎は、商売を繁盛させた。しかし、それを妬む山崎八幡宮の神人たちが、奈良屋を取り潰そうと襲撃してきた。庄九郎は機転を利かせて、この危機を乗り切る。奈良屋を廃し、「山崎屋」に変えて主になり、店を守ったのだ。その後、庄九郎は「天下獲り」を目指し、美濃の国を<国盗り>の拠点と定めた。
美濃は地理的要地にあり、尚且つ、政治的混迷が続いていた。
美濃国主は土岐政頼である。弟の頼芸(よりよし)との間に跡目騒動があり、今も燻っている。土岐家の名家、西村家を継ぎ、西村勘九郎となった庄九郎は、頼芸の腹心として寵愛され、次第に頭角を表していく。

ある日、暇に飽いた頼芸は庄九郎と賭けをする。襖絵に描かれる虎の瞳を槍で突けたら「望むものをとらす」。庄九郎は突き、頼芸の側室の深芳野(みよしの)を得た。そして、それにかわるものとして「殿に美濃一国を差しあげます」と言い放った。
 その約束は果たされた。お万阿からの資金で、美濃の豪族達を説得し、名家、明智一族の協力を得た庄九郎は、「政頼は美濃を治める力がない」と川手城を攻め、政頼を追放した。頼芸は正式に美濃の国主となり、庄九郎は土岐家の名家、長井家を継ぎ、長井新九郎利政と改め、加納城の主となった。その頃、深芳野に吉祥丸が生まれた。しかし、吉祥丸は庄九郎の子供ではないのではという噂が流れた。頼芸の元から、庄九郎の側室になって早すぎる出産だったからである。

「私にはそれしか生きる手立てがありませぬ」と、一人悩む深芳野。政頼の最大の後見人だった長井藤左エ門は、いつかは庄九郎が美濃を支配するのではないかと、疑心暗鬼になっていた。頼芸の3人の弟と豪族、地侍を集め、庄九郎を討ち、頼芸から守護職を奪う計画を密かに練っていた。夜、藤左エ門の手の忍びが庄九郎の寝所を襲う。間一髪、赤兵衛と耳次が食い止め、危機を逃れる。庄九郎は、即座に兵を挙げ、<上意討ち>として藤左エ門の館を襲い、討ち取る。しかし、この知らせを聞いた頼芸の弟たちは、「油商人を殺せ!」と頼芸に詰めよった。美濃は蜂の巣を突いた騒ぎになった。弟たちに土岐一門の地侍たちが集結し、その数は増え続け、2万を越える程になった。「少しやり過ぎたかな」。庄九郎は、心配する深芳野と明智家から人質として来ている那那姫を呼び、「殺されるのはわし一人。だが、まだ殺されるのはごめんだ・・・」と、頭を剃り、元の法師に戻った。
出家して道三と名乗り、全てを捨てて、雲隠れしてしまったのである。

 
< 第二部 蝮の道三・虎の信長 >
 
道三が美濃を去って、数ヵ月後。尾張の織田信秀が木曽川を渡り、美濃に攻め込んで来た。優秀な指揮官を欠いた美濃勢は大敗し、多くの領民たちが犠牲となった。美濃が道三を必要としていた。その急報を受け、道三は美濃に戻った。美濃勢の士気が一気に高まり、みるみるうちに形勢は逆転し、織田軍は四散した。この戦の大勝利で「美濃に道三あり」という有名が高まった。
既得権益を持つ旧勢力や、ライバルである近隣諸国から見れば、「蝮」に見える道三も、領内の農民や家来にとっては絶対的な人気があった。
 楽市・楽座、新しい戦法、新しい築城術、どれも当時の常識からは強引なようだが、理に叶っている。だから国は豊かになるし、当然人気も出る。

 十数年が過ぎた。那那姫は成長し、小見の方と呼ばれ、道三は正室に迎えた。その娘が帰蝶(濃姫)である。道三の楽しみは、帰蝶、吉祥丸、明智頼高から預かり、我が子同様に育てていた桃丸(後の明智光秀)の成長を見守ることだった。

その頃、那古野城の織田信秀の下に、頼芸の嫡子・小次郎の姿があった。「あの蝮は、国泥棒。今のうちに葬っておかねば、大事に至りますぞ」。小次郎は、信秀と通じ、道三を倒し、頼芸から国主の座を奪う計画を練っていた。小次郎が兵を挙げ、織田の援軍は美濃国境に迫っていた。道三は、頼芸に小次郎を廃嫡するよう進言した。廃嫡された小次郎は、謀反人とされ、加担する美濃侍たちはほとんどいなかった。道三の旗印「二頭波頭」が風にはためく。織田軍を襲う道三軍の勢いに、信秀は退却を余儀なくされた。またしても逃げ帰ってきた信秀を、吉法師(後の信長)が迎える。「お父、蝮との戦に負けたのか」。子が親を討つ乱世を、小見の方と深芳野は憂い心配する。「そのうち、御父上が天下をとって、乱世はおさまります」と帰蝶は強く言うのだった。

 月日が流れたが、頼芸は、あいかわらず、酒と女と歌舞音曲、鷹の絵を描く毎日を送っていた。道三は、意を決して頼芸を訪ねる。「お屋形様はご隠居なされます様・・・」。わめく頼芸に、「このままでは美濃は亡びる」と説得する。「わしを隠居させて誰を守護職に?」「お子でござる。我が屋敷にお預かりしている」。深芳野が産んだ吉祥丸は、元服して義竜と名乗っていた。「わしを隠居させるのなら、兵馬に問え!」夜、頼芸の館を道三の兵が包囲する。慌てた頼芸は絵筆、絵具を持ち、逃げ落ちていく。木曽川まで逃げ延びた頼芸は、一艘の船に乗り込んだ。「あの男が油売りとして流れて来た時、みなの用心せよという忠告を聞いておけばよかった」と涙声に語る頼芸。舟を漕ぐ漁師が口を開いた。「それは間違いです。お屋形様は、それがしのおかげで美濃の守護職になれ、この乱世に十数年もその地位を保たれた」。実は、道三が漁師に変装し、最後の別れを告げに待っていたのだ。

美濃は完全に斎藤道三の支配するところとなった。だが、越前には朝倉が、尾張には織田が勢力を伸ばし、しきりに美濃を刺激していた。合戦に継ぐ合戦が繰り広げられた。そこへ、信秀の使者として平手政秀が、道三の下へ現れた。元服した信長と、帰蝶の縁談の相談である。織田との戦がなくなれば、美濃も平穏になる。道三は、溺愛する娘を手放してまでこの政略に心が動いた。暫く後、道三は京のお万阿を訪ねた。美濃を盗るまで20数年かかった・・・。将軍になって戻ってくる約束を果たせそうにないと、お万阿に詫びる道三。「では、京に戻られますか」と喜ぶお万阿。しかし、もはや道三は、美濃には無くてはならない存在。夜、道三は置手紙を後に京を去るのだった。「許せ、道三」。
美濃に戻った道三は、持是院を訪ねた。ここには、世を憂い、尼となった深芳野がいた。「不自由はないか」と聞く道三に、「別にございませぬ」と答える深芳野。道三が帰った後、深芳野は一人忍び泣く。

道三は、信長と帰蝶の縁談を決めた。それを聞いた明智光秀は驚く。同様に帰蝶も驚く。「私に、縁談。光秀どののところに参るのでございますか」。その問いに戸惑う道三。「そなたは正妻の一人娘。目下のものへやるわけにはいかぬ。尾張の信長という若者だ」。
天文18年(1549)、帰蝶の輿が尾張へ向けて出発する。道三は帰蝶に「信長はうつけ者だ。嫌になったら、その時はこれで刺せ」と短刀を手渡す。しかし、帰蝶は「この短刀は、お父上を刺すお刀になるやも知れませぬ」と答える。

婚儀の席には、信長の姿はなかった。あいかわらず、信長はうつけ姿で外を飛び回っていた。お守役の平手政秀の説得でようやく帰蝶の下へ現れる。「お濃、俺は馬鹿かどうか自分でも判らん。俺が馬鹿か、世間が馬鹿か・・・俺が天下をひっくり返してみないと判らんだろう。そなただけは、俺を馬鹿だと思ってもらっては困る。」「わかりました。お濃はいつまでも信長様の味方でございます」と帰蝶は笑って答える。

2年後、信秀が急死した。その葬儀の読経中、うつけ姿で現れた信長は、いきなり香炉の抹香をわしづかみにし、投げつけた。信秀の妻、土田御前は次男の勘十郎を跡取りにしようと画策する。人びとも、勘十郎が総領になれば織田家も安泰と囁きあった。そんな折、平手政秀が切腹した。「じいッ!俺は本物のうつけだった」。平手の諫死に目が覚める信長。平手の自害を聞いた道三は、信長へ面会の使いを出す。その申し出を受ける信長。近習たちは「娘婿といえ、相手は蝮ですぞ。何を考えているか判りませぬ」と断るよう進言した。信長の命を狙う者は、城内でも少なくなかったからである。道三と信長の会見場所は、美濃と尾張の国境に近い聖徳寺で行われた。会見前に道三は、信長を見てみたいと街道脇の百姓屋に隠れた。その前を通りかかる信長の行列。馬上の信長は、茶筅髷。萌黄の紐で髷を巻き、浴衣、片袖外し。大小は腰に縄でグルグル巻き、瓢箪をぶら下げたうつけ姿。それを見た道三は「何という馬鹿だ」。しかし、その後を三間槍500本、鉄砲500本を携えた兵を見て表情を変える。

袖なし羽織に小袖の着流しで待つ道三の下へ、信長が現れる。髪を結い、長袖に長袴。信長の正装姿に面食らう道三。「あちらが山城入道でござりまする」という赤兵衛の言葉に、「デアルカ」とうなずく信長。会見は終始無言で終わった。その夜、道三は信長に手紙を書いた。「あなたを見て自分の若い頃を思った。援軍が必要な際は申し込まれよ」と。

 
< 第三部 信長・桶狭間の戦いから天下布武の道 >
 

義竜は守護職だが、美濃の実権は道三が握っていた。疑心暗鬼になっていた義竜は、出生の秘密を聞かされる。父親は道三ではなく、土岐頼芸であると。義竜は深芳野に詰問するが、深芳野は涙を流し答えない。義竜の心は決まった。

「父・頼芸の仇を討つ」。桔梗ののぼりが道三の居城・鷺山城を囲む。土岐家の正式な後継者である義竜の下に、美濃侍たちが集結した。その数、道三軍の10倍。道三は、自分の終末を予感した。義竜の反乱を聞いた信長は、援軍を出すと伝える。しかし、道三はそれを拒む。「戦は利害でやるものぞ」。そして、美濃を信長に譲るという書状を書く。「蝮を連れて戻る」と帰蝶に言い、飛び出す信長。しかし、織田軍は美濃軍に阻まれ、道三は長良川河畔で討死した。道三の<国盗り>の夢は志半ばで終った。しかしその夢は、2人の若者に受け継がれていく・・・。
娘婿の織田信長と、我が子同然に育ててきた明智光秀である。
光秀は道三の最期を伝えに京のお万阿を訪ねる。
それを聞いたお万阿は「私の夫は山崎屋庄九郎です」と涙を流す。

 放浪の身となった光秀は、衰退した足利幕府を再興し、乱世を鎮めるという希望に燃える。そんな光秀を支える妻のお槙。京を追われた将軍・義輝を訪ね、その側近の細川藤孝と出会う。光秀は藤孝と結束し諸国の協力を得るため奔走する。その頃、一人の男が家来を志願して信長の前に平伏した。「おもしろい・・・。猿のようじゃな」「はい・・・猿でございます」。木下藤吉郎、後の豊臣秀吉である。

 永禄3年(1560)、今川義元が上洛を目指し動いた。その数2万5千。信長軍の10倍である。重臣たちの反対を押し切り、城を出ると宣言する信長。熱田大明神に自軍を集結させ、今川の本陣目指して突撃する。雨が降りしきる中、奇襲は成功。桶狭間で大勝利を収める。この戦の勝利で、信長の名は天下に広まった。「まさか、あの信長が」。それを聞いた光秀は、自分が描いた夢の実現のため、急ぎ、越前の朝倉氏を訪ねた。越前の覇者、朝倉家は、代々守護職を務める名家。朝倉義景に将軍家再興を説くが、優柔不断な義景は動かない。

翌、永禄4年、信長は堺を訪ね、その足で将軍・足利義輝に謁見した。光秀はその報せを病床で聞く。「信長は俺よりも、ずっと先を歩いている。やっぱり道三殿が云われた様に、意外な人物なのかもしれない・・・」。
お槙は自らの髪を売って手に入れた高額な薬を、光秀に飲ませる。
「お槙、すまぬ・・・。必ずや他日、天下をとってやる・・・」。


その頃、美濃の義竜が急逝した。信長は、義父・道三の仇を討つべく、賢臣・木下藤吉郎の智略を得て美濃を攻略し続ける。しかし、美濃兵たちは手強かった。信長の美濃攻略中、光秀は将軍・義輝と朝倉義景の間を取り持つべく奔走していた。そして義輝にその働きを認めてもらえた矢先、松永弾正が義輝を暗殺したのだった。悲しむ光秀と細川藤孝は、義輝の弟で奈良の一乗院にいる覚慶を救い出し、将軍職に就かせようと画策する。三好、松永の兵が包囲する中、光秀は覚慶を背負い、無事救出。

その頃、信長は、ついに稲葉山城を攻め落とした。
道三が亡くなって11年目の夏だった。
「父の志を継いで頂き、うれしゅうございます」と涙する濃姫だった。


いっこうに上洛する気配を見せない朝倉義景に見切りをつけた光秀は、一大決心をする。
信長に仕えようと。美濃へ行き、信長と面会する。信長は「金柑頭」と言いながら、「使えそうな奴だ」と一瞬で光秀の才覚を見抜く。
永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉戴し、京へ上洛した。
遂に信長は栄光の掛け橋を一段上ったのである。

しかし、将軍に就いた義昭は、信長に対し不信感を抱くようになる。光秀を呼び、「鷹を追え」と云う。今や信長の家臣となった光秀の立場は辛く、「石になる他はございませぬ・・・」。
義昭は活発に動き、越後上杉、越前朝倉、甲斐武田、安芸毛利、播磨の本願寺、近江の叡山などと同盟を結び、密かに信長包囲網を作り上げていった・・・。


 
< 第四部 信長と光秀・・・宿命の本能寺 >
 

信長は京へ上り、そのまま北進し、朝倉領に攻め込んだ。義昭を責めず、義昭が頼りにした朝倉家を討ちとろうと考えたのだ。光秀も参戦し、旧主家に刃を向けた。しかし、突如信長の背後を浅井長政が襲った。浅井には信長の妹・お市の方を嫁がせ、同盟を結んでいたが、長政が裏切ったのだ。その報せを聞き、信長は急遽、全軍撤退を命じた。しんがりを努めていた藤吉郎を、光秀は三河の徳川家康と助け、京に舞い戻る。その後、信長、家康軍は、姉川の合戦で、浅井、朝倉の連合軍を破る。義昭は信長に「姉川の大勝利、祝着だった」と褒めるが、裏では次なる手を画策していた。

続いて、近江の叡山が信長に抵抗したのだった。延暦寺を焼き討ちにする命を聞いた光秀は、焼き討ち反対を信長に説く。しかし、信長は「この金柑頭!汝に分からせるには、これしかないわッ」と光秀の頭を掴んで、田に転がす。「新しい世の中を作るには、壊さなければならんものは壊す」。
信長は光秀の理屈っぽいところを嫌っていたが、その才能は買っていた。すぐに光秀に近江・坂本に城を築かせ、10万石の城主にさせたのだった。
元亀3年(1572)、甲斐の武田信玄が上洛軍を進めた。「風林火山」の旗は、三方ヶ原で徳川家康を破り、信長の喉元まで迫った。将軍義昭は大いに喜んだが、信玄の動きが止まった。病死したのだった。

その頃、光秀と藤孝は悩んでいた。義昭が信長に謀反を企てている事に対し、諌めきれないと判断したのだった。若かりし頃、奈良・一乗院から背負って救い出し、幕府再興に賭けた夢が終わる・・・。光秀は、信長に手紙を認めた。将軍、義昭が公然と謀反を起こすと。信長は諌状を義昭に送ったが、義昭は南近江の石山城にこもり、対抗した。信長は光秀に先陣を任せ、義昭追討を命じた。ここに15代続いた室町幕府は終わったのである。
信長は、続いて、越前に攻め入り、朝倉義景を自害させ、近江の小谷城を包囲し、浅井長政をも自害させ、滅亡させた。
もはや信長の勢いは誰も止めることは出来なかった。
その頃、光秀の娘、お玉と細川藤孝の嫡男・忠興の祝言が行なわれていた。

天正3年(1575)織田・徳川連合軍は、長篠で武田勝頼を破り、大勝利を収めた。光秀は、三段入れ代わり一斉射撃の作戦を聞き、信長の異才に慄いた。その頃、信長の高官で摂津一国を宰領していた荒木村重が謀反を起こした。信長は光秀を使いに出す。光秀の娘は、村重の嫡男・新五郎に嫁いでいたのだ。光秀の説得により、村重は思い止まった。しかし、村重は再び信長に反旗を翻した。怒った信長は、伊丹城を包囲し、滅ぼした。村重は毛利を頼り、落ちていった。

信長は、安土に城を築き、その威信を広く轟かせた。信長は、現状に満足し、働かない家臣を次々と追いやった。林通勝、佐久間信盛・正勝親子・・・、織田家の重臣達がリストラされていく様を見て、光秀は次第に疑心暗鬼になっていった。甲府征伐に参陣した光秀は、信長の下に、反武田の信濃勢が集まってくるのを見て、「これまで骨を折った甲斐があった」と呟いた。それを聞いた信長は、烈火の如く怒り狂い、欄干に光秀の頭を打ちつけた。森蘭丸が間に入り止める。「上様!ここはご堪忍を」。
武田勝頼を倒した信長は、中国を攻めていた羽柴秀吉から出馬の要請を受け、毛利攻めに向かう。その時、信長は光秀に近江と丹波の2国を取り上げ、出雲、石見の2国を与えるという命を伝える。

信長にとって、光秀への励ましの意味を込めた命令だったが、光秀には信長の心は届かなかった。「出雲、石見は敵の毛利の両国・・・。わしは無禄になった。わしの兵を養って行くことは出来ぬ・・・」。丹波に戻った光秀は、一人愛宕山に登った。「京は空白・・・。時は今・・・」丹波の亀山城で光秀は、家臣の明智光春、斎藤利三を呼び、その決意を伝える。

天正10年(1582)、亀山城を出た光秀軍は、京へ向かった。本能寺で信長は、嫡男・信忠と濃姫、森蘭丸と酒宴を開いていた。「よいか!皆の者よう聞け!敵は本能寺にあり!」明智軍は、京の町を駆け抜け本能寺を包囲した。

「明智光秀、謀反にござりまする・・・」。蘭丸の報せを聞いた信長は、濃姫を逃がそうとする。「濃は蝮の子にござりまする」。「ならば、生死は一如!」と共に闘う。『人間、五十年 下天のうちにくらぶれば・・・』炎に包まれた中、舞を舞う信長。享年四十九歳で波乱の生涯を閉じた。
丹後、宮津城にいた細川藤孝は、光秀謀反の報せを聞き、息子・忠興と信長追善のため、髪を切り、幽斎、三斎と名を改め出家してしまった。忠興の頭を見て、お玉は自ら離縁を伝え、細川家から出て行く。光秀は、手紙を送り、藤孝に味方に着くよう促すが、藤孝は涙を流して断る。信長の死を知った秀吉は、備中高松から京へ舞い戻り、光秀と山崎で相対した。

圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の前に、光秀は敗走を余儀なくされた。
京の郊外・小来栖。竹やぶの中を馬で進む光秀を、竹槍が襲う。落馬した光秀の目に、満天に輝く北斗七星が・・・。
「星か、こんな美しいものが、あったんだ」
道三が、信長が、天下統一という夢をみた。そして光秀が、その見果てぬ夢に別れを告げた時・・・戦国という時代も、終わりを告げようとしていた。

 
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