義竜は守護職だが、美濃の実権は道三が握っていた。疑心暗鬼になっていた義竜は、出生の秘密を聞かされる。父親は道三ではなく、土岐頼芸であると。義竜は深芳野に詰問するが、深芳野は涙を流し答えない。義竜の心は決まった。 「父・頼芸の仇を討つ」。桔梗ののぼりが道三の居城・鷺山城を囲む。土岐家の正式な後継者である義竜の下に、美濃侍たちが集結した。その数、道三軍の10倍。道三は、自分の終末を予感した。義竜の反乱を聞いた信長は、援軍を出すと伝える。しかし、道三はそれを拒む。「戦は利害でやるものぞ」。そして、美濃を信長に譲るという書状を書く。「蝮を連れて戻る」と帰蝶に言い、飛び出す信長。しかし、織田軍は美濃軍に阻まれ、道三は長良川河畔で討死した。道三の<国盗り>の夢は志半ばで終った。しかしその夢は、2人の若者に受け継がれていく・・・。 娘婿の織田信長と、我が子同然に育ててきた明智光秀である。 光秀は道三の最期を伝えに京のお万阿を訪ねる。 それを聞いたお万阿は「私の夫は山崎屋庄九郎です」と涙を流す。 放浪の身となった光秀は、衰退した足利幕府を再興し、乱世を鎮めるという希望に燃える。そんな光秀を支える妻のお槙。京を追われた将軍・義輝を訪ね、その側近の細川藤孝と出会う。光秀は藤孝と結束し諸国の協力を得るため奔走する。その頃、一人の男が家来を志願して信長の前に平伏した。「おもしろい・・・。猿のようじゃな」「はい・・・猿でございます」。木下藤吉郎、後の豊臣秀吉である。 永禄3年(1560)、今川義元が上洛を目指し動いた。その数2万5千。信長軍の10倍である。重臣たちの反対を押し切り、城を出ると宣言する信長。熱田大明神に自軍を集結させ、今川の本陣目指して突撃する。雨が降りしきる中、奇襲は成功。桶狭間で大勝利を収める。この戦の勝利で、信長の名は天下に広まった。「まさか、あの信長が」。それを聞いた光秀は、自分が描いた夢の実現のため、急ぎ、越前の朝倉氏を訪ねた。越前の覇者、朝倉家は、代々守護職を務める名家。朝倉義景に将軍家再興を説くが、優柔不断な義景は動かない。 翌、永禄4年、信長は堺を訪ね、その足で将軍・足利義輝に謁見した。光秀はその報せを病床で聞く。「信長は俺よりも、ずっと先を歩いている。やっぱり道三殿が云われた様に、意外な人物なのかもしれない・・・」。 お槙は自らの髪を売って手に入れた高額な薬を、光秀に飲ませる。 「お槙、すまぬ・・・。必ずや他日、天下をとってやる・・・」。 その頃、美濃の義竜が急逝した。信長は、義父・道三の仇を討つべく、賢臣・木下藤吉郎の智略を得て美濃を攻略し続ける。しかし、美濃兵たちは手強かった。信長の美濃攻略中、光秀は将軍・義輝と朝倉義景の間を取り持つべく奔走していた。そして義輝にその働きを認めてもらえた矢先、松永弾正が義輝を暗殺したのだった。悲しむ光秀と細川藤孝は、義輝の弟で奈良の一乗院にいる覚慶を救い出し、将軍職に就かせようと画策する。三好、松永の兵が包囲する中、光秀は覚慶を背負い、無事救出。 その頃、信長は、ついに稲葉山城を攻め落とした。 道三が亡くなって11年目の夏だった。 「父の志を継いで頂き、うれしゅうございます」と涙する濃姫だった。 いっこうに上洛する気配を見せない朝倉義景に見切りをつけた光秀は、一大決心をする。 信長に仕えようと。美濃へ行き、信長と面会する。信長は「金柑頭」と言いながら、「使えそうな奴だ」と一瞬で光秀の才覚を見抜く。 永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉戴し、京へ上洛した。 遂に信長は栄光の掛け橋を一段上ったのである。 しかし、将軍に就いた義昭は、信長に対し不信感を抱くようになる。光秀を呼び、「鷹を追え」と云う。今や信長の家臣となった光秀の立場は辛く、「石になる他はございませぬ・・・」。 義昭は活発に動き、越後上杉、越前朝倉、甲斐武田、安芸毛利、播磨の本願寺、近江の叡山などと同盟を結び、密かに信長包囲網を作り上げていった・・・。
信長は京へ上り、そのまま北進し、朝倉領に攻め込んだ。義昭を責めず、義昭が頼りにした朝倉家を討ちとろうと考えたのだ。光秀も参戦し、旧主家に刃を向けた。しかし、突如信長の背後を浅井長政が襲った。浅井には信長の妹・お市の方を嫁がせ、同盟を結んでいたが、長政が裏切ったのだ。その報せを聞き、信長は急遽、全軍撤退を命じた。しんがりを努めていた藤吉郎を、光秀は三河の徳川家康と助け、京に舞い戻る。その後、信長、家康軍は、姉川の合戦で、浅井、朝倉の連合軍を破る。義昭は信長に「姉川の大勝利、祝着だった」と褒めるが、裏では次なる手を画策していた。 続いて、近江の叡山が信長に抵抗したのだった。延暦寺を焼き討ちにする命を聞いた光秀は、焼き討ち反対を信長に説く。しかし、信長は「この金柑頭!汝に分からせるには、これしかないわッ」と光秀の頭を掴んで、田に転がす。「新しい世の中を作るには、壊さなければならんものは壊す」。 信長は光秀の理屈っぽいところを嫌っていたが、その才能は買っていた。すぐに光秀に近江・坂本に城を築かせ、10万石の城主にさせたのだった。 元亀3年(1572)、甲斐の武田信玄が上洛軍を進めた。「風林火山」の旗は、三方ヶ原で徳川家康を破り、信長の喉元まで迫った。将軍義昭は大いに喜んだが、信玄の動きが止まった。病死したのだった。 その頃、光秀と藤孝は悩んでいた。義昭が信長に謀反を企てている事に対し、諌めきれないと判断したのだった。若かりし頃、奈良・一乗院から背負って救い出し、幕府再興に賭けた夢が終わる・・・。光秀は、信長に手紙を認めた。将軍、義昭が公然と謀反を起こすと。信長は諌状を義昭に送ったが、義昭は南近江の石山城にこもり、対抗した。信長は光秀に先陣を任せ、義昭追討を命じた。ここに15代続いた室町幕府は終わったのである。 信長は、続いて、越前に攻め入り、朝倉義景を自害させ、近江の小谷城を包囲し、浅井長政をも自害させ、滅亡させた。 もはや信長の勢いは誰も止めることは出来なかった。 その頃、光秀の娘、お玉と細川藤孝の嫡男・忠興の祝言が行なわれていた。 天正3年(1575)織田・徳川連合軍は、長篠で武田勝頼を破り、大勝利を収めた。光秀は、三段入れ代わり一斉射撃の作戦を聞き、信長の異才に慄いた。その頃、信長の高官で摂津一国を宰領していた荒木村重が謀反を起こした。信長は光秀を使いに出す。光秀の娘は、村重の嫡男・新五郎に嫁いでいたのだ。光秀の説得により、村重は思い止まった。しかし、村重は再び信長に反旗を翻した。怒った信長は、伊丹城を包囲し、滅ぼした。村重は毛利を頼り、落ちていった。 信長は、安土に城を築き、その威信を広く轟かせた。信長は、現状に満足し、働かない家臣を次々と追いやった。林通勝、佐久間信盛・正勝親子・・・、織田家の重臣達がリストラされていく様を見て、光秀は次第に疑心暗鬼になっていった。甲府征伐に参陣した光秀は、信長の下に、反武田の信濃勢が集まってくるのを見て、「これまで骨を折った甲斐があった」と呟いた。それを聞いた信長は、烈火の如く怒り狂い、欄干に光秀の頭を打ちつけた。森蘭丸が間に入り止める。「上様!ここはご堪忍を」。 武田勝頼を倒した信長は、中国を攻めていた羽柴秀吉から出馬の要請を受け、毛利攻めに向かう。その時、信長は光秀に近江と丹波の2国を取り上げ、出雲、石見の2国を与えるという命を伝える。 信長にとって、光秀への励ましの意味を込めた命令だったが、光秀には信長の心は届かなかった。「出雲、石見は敵の毛利の両国・・・。わしは無禄になった。わしの兵を養って行くことは出来ぬ・・・」。丹波に戻った光秀は、一人愛宕山に登った。「京は空白・・・。時は今・・・」丹波の亀山城で光秀は、家臣の明智光春、斎藤利三を呼び、その決意を伝える。 天正10年(1582)、亀山城を出た光秀軍は、京へ向かった。本能寺で信長は、嫡男・信忠と濃姫、森蘭丸と酒宴を開いていた。「よいか!皆の者よう聞け!敵は本能寺にあり!」明智軍は、京の町を駆け抜け本能寺を包囲した。 「明智光秀、謀反にござりまする・・・」。蘭丸の報せを聞いた信長は、濃姫を逃がそうとする。「濃は蝮の子にござりまする」。「ならば、生死は一如!」と共に闘う。『人間、五十年 下天のうちにくらぶれば・・・』炎に包まれた中、舞を舞う信長。享年四十九歳で波乱の生涯を閉じた。 丹後、宮津城にいた細川藤孝は、光秀謀反の報せを聞き、息子・忠興と信長追善のため、髪を切り、幽斎、三斎と名を改め出家してしまった。忠興の頭を見て、お玉は自ら離縁を伝え、細川家から出て行く。光秀は、手紙を送り、藤孝に味方に着くよう促すが、藤孝は涙を流して断る。信長の死を知った秀吉は、備中高松から京へ舞い戻り、光秀と山崎で相対した。 圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の前に、光秀は敗走を余儀なくされた。 京の郊外・小来栖。竹やぶの中を馬で進む光秀を、竹槍が襲う。落馬した光秀の目に、満天に輝く北斗七星が・・・。 「星か、こんな美しいものが、あったんだ」 道三が、信長が、天下統一という夢をみた。そして光秀が、その見果てぬ夢に別れを告げた時・・・戦国という時代も、終わりを告げようとしていた。