番組で試みたメディア・リテラシーに関するメッセージ
(ネタバレ満載のためご覧になっていない方はご注意ください)
 

この番組には、本編中に「メディア・リテラシー」という言葉が音声としては一回も出てきません(文字も冒頭の枠タイトルのスーパーと最後のホームページ紹介のスーパーだけです)。それどころか「主体的に読み解く」とか「批判的に読み解く」といったフレーズすら禁句にしてしまいました。今となっては、我ながら何でそこまで意固地になったのかわかりません。

とはいえ、「これでもか」とメディア・リテラシーの大切さをメッセージとして盛り込んだつもりです。「自分の作品の解説をすることほど野暮なことはない」とは森さんの弁ですが、そういう森さんだって、そう言いながら自分の講演で自分の作品について結構、語っているので、ここでも少しやってしまいます。

1.対談の内容から直接のメッセージ

(1)藤原ヒロシ
    「ひとつの事実に対していろんな真実を語り合うのが面白い」
(2)原一男
    「自分のドキュメンタリーを語るとき“真実”という言葉を使って、あるいは“客観的”という
     言葉を使って語ったことはない」
(3)佐藤真
    「ドキュメンタリーはフィクション。現実の素材を再構成した段階でフィクションになる」
 森達也
    「テーマを選んだ瞬間にもうフィクションが始まっている。フィクションというか、主観・自分の
    想いという ものが始まっている」
(4)緒方明
    「ドキュメンタリーには事実というシナリオがある。真実は百人いれば百通りある。(その人の
    主観ですかという問いに)そういうことですね」
(5)安岡卓治
    「(撮られる側は)カメラがあるということを意識する。
     テレビが取材に来るというと(準備して)喋ることも考えている」
(6)堀靖彦
    「ある事例を取り上げるときにどういう視点で捉えるのか。どうしても伝えたいことが生じる、
    そこに対して絶えず勉強して判断していきたい」
(7)綿井健陽
    「映像は何かを映し出すと同時に何かを隠している。そこ(映らない部分)が重要。いろんな
    視点から 伝えることが必要」

2.手法によるメッセージ

(1)異なる視点から見た場合、出来事が違って見える
   森さんが、森カメラ(本編)ではちゃんとしているのに、村上カメラ(メイキング)ではダメ男等。

(2)ジャンプ・ショットの多用による映像選択・時間経過の存在の明確化
    同じポジションでカットをつなぐとジャンプ・ショットになりショックがあるため通常はインサート・カット
    を挟みます。この番組では、松江君が意図的に(特に村上カメラのシークエンスで)ジャンプ・ショッ
    トを多用して、ものすごい「リズム感」「笑い」を生み出しています。
    実は、このジャンプ・ショットを多用することでメディア・リテラシーのメッセージをも込めようと考えま
    した。インサート・カットを挟むと自然な流れで見ることができると同時に、(悪い言い方をすれば)
    捨てたカットの存在や経過した時間を隠蔽するという効果もあります。
    ジャンプ・ショットは、捨てられたカットや時間の存在を主張しているのです。

(3)コメントの意図的編集による映像選択・時間経過の明確化
    番組の中で「先ほども言いましたが、〜」というコメントが2度ほど出てきますが、その先ほどの
    シーンは放送されません。ジャンプ・ショット同様、たくさんの素材の中から作り手が放送する
    部分を選択しているということです。

(4)ツッコミどころ満載のつくり
    これは、最初から意図したものではなく結果的にです。村上賢司が暴走して40時間以上撮っ
    てしまったものを、松江哲明が吉田のかわいいところだけつなげてしまったため、いろんなと
     ころで辻褄が合っていません(*1)
    そもそも、「ドキュメンタリーに真実はあると思いますか?」という質問の設定自体ズレていま
     す。その他にも何でジャーナリストの話を聞くことにしたのかが不明瞭だったり、吉田のコメ
     ントがおかしかったり(*2)本当にツッコミどころ満載です。
    街頭インタビューなどは、村上賢司にやり直しさせようかと思ったくらいです。でも粗編を見て
    辻褄合わせはやめようと思いました。そのままの方が面白かったからです(*3)
    で、これがどうしてメディア・リテラシーのメッセージになるのか?
    見た方がツッコむ行為は、まさに「主体的に読み取った」からではないでしょうか?苦しい
     言い訳ですか?そうですか。すいません。

(5)街頭インタビューの扱い 

  [ネタとして取り上げることになった経緯]
    2005年12月某日、ムラケンとご飯を食べながら打合せをしていた時のことです。
    ムラケンが、
     「街頭インタビューってどう思います?あんな無意味なものないと思うんですけど」
     と話を振ってきました。

    「少なくともデータ的にはまったく意味はないよね。サンプルの取り方だって恣意的だし
     何千人に聞くわけじゃなし」
     「この番組で街頭インタビューがくだらないってことやりたいんですけど…」
     「うーん、こんなものやめちゃえっていう趣旨なら番組のテーマにはそぐわないと思う。
      メディア・リテラシーは、第一には“受け手がメディアからの情報をどう捉えるか”
      ってことだから。作り手だけに対するメッセージになっちゃうと
      テーマから離れるおそれがあるんじゃないの。
      でも、街頭インタビューを受け手としてどう捉えるかということならアリだと思う。
      つまり、“統計学的には意味はないけれど、作り手自身が何を考えているか・
      視聴者をどう誘導しようとしているかということを探る手掛かりだ”という文脈なら
      まさにメディア・リテラシーじゃないかな」
     「両極端な意見をカットして、賛成・反対・中間の割合を
      自分の好きなように編集しているということは伝えたいですね」

     という打合せを経て、街頭インタビューをすることになりました。

  [街頭インタビューを番組でどう扱ったか]

   冒頭で、「ドキュメンタリーに真実はあると思いますか?」という質問に対し
    3組の方のインタビューを使っています。恣意的に「真実はある」という答のみです。

   このパートは、いわゆるアバンではなく、この後に続く森さんの手書きタイトルと
   セットになったオープニングです。
   街の声が、せっかく「ドキュメンタリーに真実がある」と答えてくれたのに、
    いきなり番組タイトルで「ドキュメンタリーは嘘をつく」とひっくり返すわけです。

    ところが本編に入ると、
    「(人それぞれの)真実」≒「フィクション」≒「主観」≒「視点」≒「(別の角度から見た)嘘」
    というメッセージが語られることになります。
    さらに「ひっくり返す」、あるいは
    「ひっくり返したように見せかけて実は、必ずしもひっくり返していなかった」ということです。

   後半でムラケンがディレクターになってからもう一度、同じ質問で街頭インタビューをします
    (もちろん、もう一度撮ったのではなくてすべての街頭インタビューは半日で撮ったのですが)。
    こちらも恣意的に(最初の一人を除いて)
    「真実はない」というものと「答えになっていない」ものを選んで使っています。
    そして、森達也に「つまらない」「稚拙」「作り手のアリバイ補強」と言われてしまうわけです。

   (4)で、この質問を変えて撮り直そうと考えたことがあったと書きました。
    番組の流れを考えると
    「(ドキュメンタリーなど)メディアからの情報は主観的なものだと思いますか・
    客観的に作られていると思いますか」
    といった質問にしないと辻褄が合わないからです。
    しかし、どうせ森達也に街頭インタビュー自体をバッサリとやられるのだから、
    むしろズレた質問の方が面白いです。さらに、吉田がそのあと
    「ドキュメンタリーにどれぐらい真実味を持ってらっしゃるかっていうことを
    ちょっとお伺いしたいんですけれども」などと、
    グダグダになった挙句トンデモない質問をしているので失敗度が高く笑えます
    (しかも、「“グダグダ”は演技ではなく“素”だった」と本人が後で告白しました!)。

(*1)
 こんな書き方をすると松江哲明の編集が「荒い」「いいかげん」という印象になってしまうかもしれませんが、まったく逆です。「効果的に音先行させたシーンのつなぎ方」「音楽に合わせたカット割」「OL(オーバーラップ)前後の画のバランス」等、きわめて緻密で丁寧な仕事がされています。
(*2)
 安岡さんのインタビューのときに「私がお会いしたことにあるドキュメンタリーの監督さんは、森さんと原一男さんなんですけど…」。佐藤さんと緒方さんは無視か?
 自分の視点で物事を見てみたいとムラケンに訴えるシーンで「綿井さんも話もそうだし、今までお話を伺ってきた監督の方たちもそうですけど…」。今度は堀を無視か?
 吉田が失礼な訳ではありません。お分かりの方も多いと思いますが、収録の時系列を入れ換えているのです。この発言から、どういう順番で収録が進んで行ったかが分かりますよね。
(*3)
 後日、松江君に「辻褄があっていないのが面白くて、毎日、大笑いしながら見てるよ」と言うと、
「でしょ?何度も見られる面白いドキュメンタリーって辻褄を合わせないで作るものなんですよ」と、ニヤリと笑いやがりました。「それもわざとかよっ」と愕然としました。 まさか、プロデューサーがだまされるとは…。


3.番組の構造によるメッセージ

 メディア・リテラシーとは「メディアからのすべての表現を鵜呑みにせず主体的に読み解く能力」です。これが大切だと主張するからには、メディア・リテラシーの重要性を訴えるこの番組自体、「鵜呑みにせず主体的に読み解いてもらわなければならない」ということです。
  この番組は、ドキュメンタリーとして進行していきます。しかし実際には、“大雑把にいうと”対談・インタビューや森・村上の紹介VTR以外はすべて“ドラマ(フェイク)”です(*1)
  たとえば、以下のようにご覧いただけたら、それはまさにこの番組を主体的に読み解いていただいたことになると考えました。

普通のドキュメンタリーだと思っていたら何か変だ

吉田は、実は女優が演じていた
「ドキュメンタリーじゃないのか?」

「森がディレクターを降りていなかった!」

「しかし村上も森も肩書きが“役”となっている」
「森は本当のディレクターなのか役者なのか」
「本当のディレクターは誰だ」

『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』というテロップ
「この番組自体が嘘だったのか!」

“キャスト”から始まるエンドロール
「吉田以外、本人が自分を演じるドラマだったのか!」
「松山親子も役者だ!」
「村上の妻も役者だ!」

スタッフロール
本当のディレクターは森ではなく、村上賢司だって?!
「ドラマだということはわかったが、対談・インタビューもドラマなのか?」
「キャストに対談者の名前がないからあそこはドラマじゃないかもしれないが…」
「じゃ、街頭インタビューはどうか…」
「虚実の境目はどこだ?」
「そもそも虚実に意味はあるのか?」

 こういった作品はテレビでは少ないのですが、ドキュメンタリー映画界ではさほど珍しいものではなく、フェイク・ドキュメンタリーと呼ばれています。

 日本映画史の中では、『人間蒸発』(今村昌平1968年)が有名で、近年は、『Happy Birthday, Mr. Mograbi』(アヴィ・モグラビ1999年)等世界的に話題作が増える傾向にありますが、そもそもドキュメンタリーはフェイクから始まっています(*2)。そういう意味で、この番組はドキュメンタリーの原点に戻ったといえなくもないかも…。また、実は番組スタッフの村上賢司・松江哲明・向井康介はこのジャンルに関して手練の者です。

 大人を核とした視聴者の方に、子ども向けの教育番組的な“教えてあげる”というスタイルを取ったのでは失礼すぎるし、第一、面白くありません。フェイク・ドキュメンタリーなら楽しんでいただけると思ったのですが、いかがでしたか。

追記
この番組をフェイク・ドキュメンタリーで制作するにあたって、スタッフ間で大きく意見が分かれたことがあります(そして最後までスタッフ間で意見が完全には一致していなかったように思います)。それは、番組が終わる直前まで見ている方に出来るだけフェイクだと気付かれないように作るか、それとも早い段階から沢山の「違和感」を作っていくかということです。
結果的には、「違和感」は出す、そして番組が進むにしたがって「違和感」を増大させるという作りにしました。

理由のひとつは、この番組がメディアリテラシーをテーマにした番組だからです。言い換えるとだますのが目的ではなく、バラすのが目的。フェイクと気付いて「ツッコミを入れる」、気付かなくても「なんだか変だと感じる」行為は、「主体的に見る」という意味でまさにメディアリテラシーが発揮されたということではないでしょうか。最後の方まで違和感なく作ってしまうと、その機会が減ってしまいます。
すぐに気付いた方には、以降、(村上賢司が自身のブログで述べているように)コントとしてツッコミながら楽しんでいただければと思いました。
ラストシーンとエンドロールで気付いた方は、後で「そういえば、あそこも変だった。ここも変だった」と二度楽しめるので、すぐに気付いた方よりさらにお得(?)です。
もうひとつの理由は、語弊があるかもしれませんが「違和感なし」で作るのは“簡単”でつまらないからです。
…と当初は思っていたのですが。
実際には「手法によるメッセージ(4)」でも書いたとおり意図しないところにまで「違和感」続出でボー然という事態に。でも、面白いのでほったらかしにしたのも前述の通りです。

放送後、サイトに寄せられた反響や見た方がブログに書いていただいた感想を見て驚きました。想定した以上に多様性に富んでいたのです。
フェイク自体についてもタイトルだけで気付いた方から、スタッフロールで気付いた方まで。吉田が素人離れしているため気付いた方がいる一方で、吉田だけが最後まで分からなかった方も。さらには、ありえない展開で気付く方がいるかと思えば、ありえない展開だから逆にリアルと感じた方…。そして、森さんの演技が不自然で気付いた方と、「なんて不愉快な男だ」と思いながら見ていただいた方(どっちにしても森さんにいいことない)。 いろんな「違和感」を盛り込んでおいてよかったなぁと思いました。


(*1)
 “フェイク(ドラマ)”と書いてしまいましたが、今から考えてあれが本当にフェイク(ドラマ)だったのかというと断言できないような気がしています。たしかに収録時はドラマ(フェイク)だと思っていました。
  しかし、最初の「森さんから村上賢司を紹介されるシーン」にしても場所と時間が異なるものの実際にあったことです。原一男さんのシーンにしても、司会を降ろされた吉田が収録後に、「演技のはずなのに、私、本当に落ち込んじゃいました」と言っていました。また、森さん・ムラケンの言動は基本的に演技とはいえ、本気でお互い「コノヤロー」と思った瞬間があったらしいです。さらに、吉田の最後の台詞はどこまでが吉田でどこまでが水木か僕には分からないし、もしかしたら本人すら分かっていないかもしれません。各シーンをエチュード形式で撮ったことが原因かもしれません。
  反対に、対談やインタビューは、安岡さんのおっしゃるとおりカメラを意識する以上 “そのままの現実”ではなく、“演出された”現実です(安岡さん自身も前夜、お肌をパックしたり、想定される質問に対し事前に答えを考えたりしたかもしれませんよ) 。
  作り手自身、虚実の境目がよく分からなくなっています。そして、「ドキュメンタリー」「フェイク・ドキュメンタリー」「ドラマ」というジャンルわけに大きな意味があるのか、虚と実を分けることに意味があるのかという不思議な気持ちになっています。
役者に関しては、水木ゆうな(吉田恵子)以外は素人です(森達也は「オレは本職」と言い張るおそれがありますが)。
 森さんは、 この番組で初めてゴルフクラブを握りました。
 松山の父を演じた瀬々敬久さんは、『ドッグ・スター』(2002)『MOONCHILD』(2003)等の映画監督。道端で着がえさせるなど、(いくら仲がよいといっても)村上賢司がとっても失礼な扱いをしてしまいました。本当に申し訳ありません。
 「ソノ国際映画祭」なんて、存在しません。
 『皮膜』は、番組用に村上賢司が2時間で撮ったものです。
 日時関係のスーパーテロップは、ほとんど事実とは異なります。
 ラストカットで、「このあとにファーストカットを撮る」なんて言っていますが(村上賢司の天才的アイデア)、実はだいぶ前にファーストカットは収録済みでした。

(*2)
 森さんの著書「ドキュメンタリーは嘘をつく」をお読みになった方はすでにご存知のとおり、ドキュメンタリーの原点といわれている『極北のナヌーク』(1922年、ロバート・J・フラハティ)の家族はキャスティングされた擬似家族でした。

4.おまけ(インターネットのリテラシー)

 なぜこんなにくだらない「プロデューサー日記」をサイトにアップしたのか。

 ひとつは、省略することによって受け手をミスリードしてしまうことがあるということを表現してみたかったのです。
 この日記の最も大きな省略は、森さんの番組における立場(企画・監修)を明記しなかったことです。さらにプロデューサーの妄言とでもいうべきコメントを加えると、あたかも森さんが本当のディレクターでその責務を放棄し無責任な行動をとったという文脈になります。
  例えば、実際は、村上賢司がディレクターなのでMAでQ出しをするのは当然村上です。監修の立場の森さんがQ出しするわけはありません。また村上があたかもQ出しを放棄して逃げたように書いた時、彼はどこにいたか?実は、ナレーションを読むためにNAブースにいたのです。
  本当の役割を知ったうえでもう一度日記をご覧になるとまた一興かと…。
  「プロデューサー日記」は、番組本編を見ていただくため・楽しんでいただくためのアオリ目的ですから他愛ない内容です。しかし、これがシリアスな問題だったらどうか…。

 もうひとつは、この番組のディレクター・村上賢司と編集・松江哲明のブログの記述と比べていただけたらと考えました。お読みいただくと、3人が言っていることは少しずつズレています。暗黙の了解としてそのままにしました。ひとつの事実に対していろいろな見方があるということをインターネットでも実感いただけたらと思っています。

5.感謝を込めたおまけ(新聞のリテラシー)

 この番組について、22日に読売新聞夕刊の「テレビ情報ボックス」(清川仁記者)、25日には朝日新聞夕刊の「窓」(隈元信一論説委員)に取り上げていただきました。記事を見てスタッフ一同大喜びです。本当にありがとうございました。
 ここで面白いことに気付きました。両方の記事を読んで不思議に思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。読み比べてみると、お二人とも番組のことをこれ以上ないくらいに理解してくださっていてそれが記事に反映しているにもかかわらず、番組の印象がぜんぜん違うのです。
 図らずも新聞のリテラシーについて僕自身が考える機会となりました。

 ご意見・ご感想を残していただけるととても嬉しいです。
 番組をご覧いただき本当にありがとうございました。

『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』
プロデューサー 替山茂樹