「1日5食でも体重38キロ」田中美奈子が生き抜いたバブル時代の芸能界
――ここからは、田中さんのアイドル時代の懐かしいお話を伺っていきたいと思います。1989年に「涙の太陽」で歌手デビューされ、瞳に1億円の保険をかけたことで大きな話題になったのをよく覚えています。
「懐かしいですね。よく、『脚に1億円の保険をかけたんですよね』と言われるんですけど、“瞳に1億円”なんですよ(笑)。当時はよくミニスカートを履いていたので、脚の印象の方が強かったみたいで」
――当時のプロモーションについて、ご自身はどのように感じていたのでしょう。
「ビックリしました。当時所属していた事務所の社長のアイデアだったんですけど、面白いですよね。とにかく1億円というインパクトが大きかった。バブル期にハマったというのもあるかもしれませんが」
――アイドル時代は、寝る間もないくらい多忙だったと想像します。
「1週間トータルで10時間寝られるかどうかというスケジュールを2年間ぐらいこなしていたと思います。歌番組、バラエティー、ドラマ、地方の営業、レコード店回り、学園祭…活動の幅が広かったので、大忙しですよ。“アイドルは何でもできなきゃダメ”という時代でした」
「懐かしいですね。よく、『脚に1億円の保険をかけたんですよね』と言われるんですけど、“瞳に1億円”なんですよ(笑)。当時はよくミニスカートを履いていたので、脚の印象の方が強かったみたいで」
――当時のプロモーションについて、ご自身はどのように感じていたのでしょう。
「ビックリしました。当時所属していた事務所の社長のアイデアだったんですけど、面白いですよね。とにかく1億円というインパクトが大きかった。バブル期にハマったというのもあるかもしれませんが」
――アイドル時代は、寝る間もないくらい多忙だったと想像します。
「1週間トータルで10時間寝られるかどうかというスケジュールを2年間ぐらいこなしていたと思います。歌番組、バラエティー、ドラマ、地方の営業、レコード店回り、学園祭…活動の幅が広かったので、大忙しですよ。“アイドルは何でもできなきゃダメ”という時代でした」
――まさに超人的なスケジュール、気力で乗り切ったのでしょうか。
「気力のみですね。1日5食くらい、焼きそばだったら大盛りにし、ものすごい量を食べているのに体重が38キロ、39キロくらいまで痩せてしまって…。倒れて病院行くと、絶対にどこか具合が悪いと思うじゃないですか。“これで休めるな~”と思うんですけど、お医者さんから『栄養失調です』と言われて、“えー、こんなに食べてるのに?”と。栄養失調なら点滴を打てばいいからってことで、すぐに帰されて、まったく休めないんですよ。点滴を打っては現場に行くという時期もありました」
――たくさんカロリーを摂取しても追いつかないぐらいのスケジュールで働いていたと…すさまじいとしか言いようのないエピソードです。
「生放送の歌番組に出演した時、体調が悪かったので、放送直前まで針治療していたんですよ。なんとか歌い終えて水を飲もうとしたら、手が震えて水がこぼれてしまい、そこから意識なくなって…。どうやら、楽屋に運ばれてみんなにマッサージされていたみたいで、気がついた時は、生放送が終わっていました。その後、病院に直行したのを覚えています」
――過酷ですね…。次の現場まで、ヘリコプターで移動したという伝説を聞いたことがありますが、それは本当ですか?
「ありました。ドラマの撮影を1度抜けて、あるゴルフ大会の優勝者に花束を贈呈するためにヘリコプターでゴルフ場に行き、また撮影に戻ってきたということが(笑)。ダブルブッキングとしかいえない無理なスケジュールも普通でした。
プライベートの時間もまったくなく、家に帰ったらシャワーを浴びて着替えて出るという生活でした。まぁでも、時代ですよね(笑)。
“これいつまで続くんですか?”と思って、ある日、母に『仕事を辞めたい』と言ったこともあります」
――無理もないですね。お母様の反応は?
「あっさり『じゃあ、辞めたら?』と。私としては甘えたい気持ちもあって、優しさを求めていたんです。よく、獅子は我が子を崖から突き落とすと言いますけど、うちの母もそういうタイプ。でもだからこそ、“絶対やってやる!”という気持ちになりましたね」
タフな精神力でハード過ぎる日々を乗り越えた田中さん。その後は、芸能界の荒波にもまれ、波乱の展開に!?
【後編】「給料を払えない」と言われ…波乱万丈の芸能人生乗り越えた田中美奈子“幸せな現在地”
【田中美奈子 プロフィール】
1967年9月12日生まれ。千葉県出身。NPO法人「Ever Lasting Friends」代表。パラオ共和国親善大使、日本RV協会キャンピングカー親善大使。
1989年、「涙の太陽」で歌手デビュー。超ミニスカートの美脚で「学園祭の女王」と呼ばれ、所属事務所が田中の瞳に1億円の保険を掛けたことで話題に。
俳優としても活躍し、ドラマ「君の瞳に恋してる!」(1989年)、「キモチいい恋したい!」(1990年) 、「もう誰も愛さないなど」(1991年)など、代表作多数。映画 「眠らない街・新宿鮫」にも出演。
(取材・文/伊沢晶子)
「気力のみですね。1日5食くらい、焼きそばだったら大盛りにし、ものすごい量を食べているのに体重が38キロ、39キロくらいまで痩せてしまって…。倒れて病院行くと、絶対にどこか具合が悪いと思うじゃないですか。“これで休めるな~”と思うんですけど、お医者さんから『栄養失調です』と言われて、“えー、こんなに食べてるのに?”と。栄養失調なら点滴を打てばいいからってことで、すぐに帰されて、まったく休めないんですよ。点滴を打っては現場に行くという時期もありました」
――たくさんカロリーを摂取しても追いつかないぐらいのスケジュールで働いていたと…すさまじいとしか言いようのないエピソードです。
「生放送の歌番組に出演した時、体調が悪かったので、放送直前まで針治療していたんですよ。なんとか歌い終えて水を飲もうとしたら、手が震えて水がこぼれてしまい、そこから意識なくなって…。どうやら、楽屋に運ばれてみんなにマッサージされていたみたいで、気がついた時は、生放送が終わっていました。その後、病院に直行したのを覚えています」
――過酷ですね…。次の現場まで、ヘリコプターで移動したという伝説を聞いたことがありますが、それは本当ですか?
「ありました。ドラマの撮影を1度抜けて、あるゴルフ大会の優勝者に花束を贈呈するためにヘリコプターでゴルフ場に行き、また撮影に戻ってきたということが(笑)。ダブルブッキングとしかいえない無理なスケジュールも普通でした。
プライベートの時間もまったくなく、家に帰ったらシャワーを浴びて着替えて出るという生活でした。まぁでも、時代ですよね(笑)。
“これいつまで続くんですか?”と思って、ある日、母に『仕事を辞めたい』と言ったこともあります」
――無理もないですね。お母様の反応は?
「あっさり『じゃあ、辞めたら?』と。私としては甘えたい気持ちもあって、優しさを求めていたんです。よく、獅子は我が子を崖から突き落とすと言いますけど、うちの母もそういうタイプ。でもだからこそ、“絶対やってやる!”という気持ちになりましたね」
タフな精神力でハード過ぎる日々を乗り越えた田中さん。その後は、芸能界の荒波にもまれ、波乱の展開に!?
【後編】「給料を払えない」と言われ…波乱万丈の芸能人生乗り越えた田中美奈子“幸せな現在地”
【田中美奈子 プロフィール】
1967年9月12日生まれ。千葉県出身。NPO法人「Ever Lasting Friends」代表。パラオ共和国親善大使、日本RV協会キャンピングカー親善大使。
1989年、「涙の太陽」で歌手デビュー。超ミニスカートの美脚で「学園祭の女王」と呼ばれ、所属事務所が田中の瞳に1億円の保険を掛けたことで話題に。
俳優としても活躍し、ドラマ「君の瞳に恋してる!」(1989年)、「キモチいい恋したい!」(1990年) 、「もう誰も愛さないなど」(1991年)など、代表作多数。映画 「眠らない街・新宿鮫」にも出演。
(取材・文/伊沢晶子)
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