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江戸幕府ラスト将軍”徳川慶喜”真の姿と渋沢栄一との意外な関係...:これが日本の新常識! なぜ あの歴史は消えたのか?

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テレ東

2019.10.7

「教科書から消えた!」を入口に、さまざまな証言や検証でミステリーを解き明かし、歴史の謎と真実に迫る「これが日本の新常識! なぜ あの歴史は消えたのか?」。10月8日(火)夜6時55分からは、その第4弾を放送。「豊臣秀吉の素顔」「鎖国はなかった!?」など、日本の歴史の常識を覆してきたが、果たして第4弾では、どんな歴史の真実に迫るのか。

ここでは特別に「江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜はなぜ、敵前逃亡の敗北の将から名君へと変わったのか!?」を紹介していく。

昔の教科書と今の教科書では評価が一転している慶喜


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まず「徳川慶喜って何をした人?」と街頭インタビューをしたところ、返ってくるのは「徳川家、最後の将軍」「十五代将軍」という答えばかり。

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慶喜について、大正時代の教科書では「逃げ帰った」「罪を謝罪した」と薩長軍との戦いに敗れて逃げたあげく、城を明け渡した臆病者扱いをされており、情けない書かれよう。

しかし現在の教科書を見てみると「フランス軍からの軍事援助を断って外国の介入を防ぎ、日本の独立を守ることにつながった名君」として書かれている。

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そう! 昔の教科書と今の教科書ではその評価が一転しているのだ。それではなぜ、このような現象が起きてしまったのだろうか...。番組ではその謎と真実に迫っていく。さらに、近代日本資本主義の父・渋沢栄一と慶喜の関係も明らかに!

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江戸時代後期の1837年、水戸藩士・徳川斉昭の七男として生まれた慶喜。周りからは天才児と言われていた慶喜だが、興味のないことにはまったく手を付けない気分屋な一面も。
一族から将軍を出したかった斉昭は、こうした慶喜の性質を見込んで「慶喜は家康の再来、神童だ」と様々な場面でアピール。しかし当の慶喜は「私は将軍になる器ではない」とまったくその気がなかったとか。

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そんな父親の根回しもあってか、慶喜は21歳(1858年)の時に将軍候補に名前が挙がるが、結局選ばれることはなかった。この時の心境を慶喜は、「骨が折れる将軍になって失敗するより、最初から将軍にならなくてよかった」と手紙にしたためている。

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歴史作家の童門冬二さんは、「慶喜は社会層を見抜く力がすごかった」と分析する。

「江戸100万人の市民が殺されるような決断はしたくない...」信念を貫いた慶喜


しかし、1866年に十四代将軍・徳川家茂が病死すると、再び臣下たちから慶喜(※演:東貴博)の将軍待望論が持ち上がる。この時幕府は、薩長軍によって攻め立てられている最中。江戸幕府最大の危機を迎えていた。

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慶喜に「将軍にはなりたくないが、このまま徳川の力がなくなっていくのも見ていられない」との思いから、ある信念が芽生える。「今一度、徳川の力を取り戻す」と。

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1866年12月、慶喜は十五代将軍に就任。だが将軍に就任後も、日に日に薩長軍の勢いは増していくばかり。そこで慶喜は政権を朝廷に戻すことを決断する。これが世に言う「大政奉還」。

「大政奉還」を行う上で慶喜には2つの策略があった。1つは政権を返上することにより、権力を失わせたと見せかけて薩長との戦いを止めるため。2つ目は「朝廷の公家たちは政治の仕事をすることができないので、今まで通り、慶喜に政権をお願いしたいと言ってくる、自分のもとに戻ってくると計算していた」と童門さん(前出)は分析。

自分のもとに政権が戻ってくると考えていた慶喜は、政権は返上したが、将軍職は辞職していなかった。だが、そんな慶喜の狙いを見抜いた薩長軍は激怒。戦争を避けられない状況になっていく。そして、1868年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。

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戦況は五分五分の中、慶喜の決断は撤退。ほとんど戦わずに江戸に撤退してしまったのだ。
劣勢の中、家臣は友好関係にあったフランス軍からの支援を提案するが、慶喜はこれを拒否!

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慶喜はフランス軍の力を借りれば薩長に勝てるかもしれないが、戦火は免れず、町は炎に包まれ、多くの死者を出してしまうと考えたのだ。江戸100万人の命を守るため、慶喜は256年続いた江戸幕府の滅亡を受け入れた。

1868年3月14日、慶喜の命によって、勝海舟が西郷隆盛と会談。幕府は負けを認めて江戸城を明け渡すことになる(江戸無血開城)。

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この決断を理由に、後に逆賊とまで言われるほどの悪評を残すことになった慶喜。だが近年の研究では、この決断が東京を守る結果になったとされている。「江戸100万人の市民が殺されるような決断はしたくない...」こうした信念を貫いた慶喜は、薩長軍と戦わないことで、江戸の町を守ったのだ。

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幕臣として慶喜に仕えていた実業家・渋沢栄一は「慶喜公の名誉を回復しなければいけない」と評していた。曾孫で渋沢家4代目当主・雅英さんはそう語る。

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実際に渋沢栄一が編纂した「徳川慶喜公伝」では、「侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大なる精神の持ち主」と、最高の敬意で締めくくられている。

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こうした慶喜の英断は改めて評価され、かつては「逆賊」と侮辱されていた表記から一転、現在は「フランス軍からの軍事援助を断り、外国の介入を防ぎ日本の独立を守ることにつながった名君」として教科書に書かれるようになったのだ。

劇中で慶喜を演じているのは東MAXこと東貴博で、これが時代劇初挑戦となる。お笑いを封印した迫真に迫る演技も必見だ!

番組ではこのほかにも、【話題沸騰!裏切り者から正義の武将になった明智光秀に関する貴重な歴史資料を 大発見!さらに、"本能寺の変"ともう1つの"正義の戦いとは?"】【この人がいなければ東京五輪は出来なかった?学者が今こそ教科書に載せたい" 保科正之とは?】などをお届け。10月8日(火)夜6時55分放送「これが日本の新常識! なぜ あの歴史は消えたのか?」をどうぞお見逃しなく!

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