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ユダヤ人を救うため”ビザを発給し続けた男”の知られざるもう一つの奇跡

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テレ東

2019.2.3 世界ナゼそこに?日本人

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世界で活躍する知られざる日本人を取材し、ナゼそこで働くのか、ナゼそこに住み続けるのかという理由を波瀾万丈な人生ドラマと共に紐解いていく「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」(毎週月曜夜9時)。海外での日本人の活躍に共感し、日本人であることに誇りが持てるドキュメントバラエティだ。

「テレ東プラス」では、毎回放送した感動ストーリーを紹介していく。今回スポットを当てるのは第二次世界大戦中、旧ソ連の構成国だったリトアニア共和国で大偉業を成し遂げ、6,000人もの命を救った日本人。

1939年、ヒトラー率いるナチスドイツのポーランド侵攻により開戦した第二次世界大戦。ポーランドを占領したナチスドイツは、平和に暮らすユダヤ人を大量虐殺した。

ナチスの魔の手から逃れるためには通行手形であったビザが必要不可欠だった。そんな絶体絶命な中、ある一人の日本人がビザを発給し続けた。その日本人が発給したビザのおかげで実に6,000人もの命が救われたのだ。この歴史的大偉業を成し遂げた男の名は"東洋のシンドラー"こと杉原千畝。

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そこで今回は、杉原千畝の行動を番組独自で徹底調査。すると、これまでテレビではあまり語られることがなかった命のビザ発給後のもう一つの奇跡が浮かび上がってきた。番組スタッフはリトアニアへ飛ぶ。

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早速街で調査を開始。道行く人にリトアニアで一番有名な日本人は誰か尋ねると「もちろんスギハラだよ。彼は多くのユダヤ人を救った偉大な日本人だ」との答え。
首都の目抜き通りには彼の功績を讃える記念碑まで建てられており、今でも人々に語り継がれていた。記念碑には「スギハラにいつまでも月の光が降り注ぎますように」と彼の偉業を讃える言葉が記されていた。そしてなんと! 現地の切手にまでなっていたのだ。

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杉原がビザを書いた当時の日本領事館は、現在「杉原記念館」になっている。

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館長に案内してもらうと、ビザを書いた部屋やビザを発給したユダヤ人のリストを見せてくれた。「杉原さんのわが身を顧みない勇気ある行動が、6,000人以上の命を救ったのです」と語る館長。

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はたして、あまりテレビで語られることがなかった"もう一つの奇跡のドラマ"とは何なのか?

明治33年、岐阜県の田舎町で生まれた杉原は「将来外国で語学を生かした仕事がしたい」と早稲田大学高等師範部英語科に入学。すると大学2年生の頃、杉原にとって大きな人生の転機が訪れた。それは新聞で見つけた外務省・官費留学生の募集広告だった。試験に合格すれば政府が留学費用を負担し、将来望んだ省庁で働くことができるというもの。猛勉強の末に見事合格した杉原は、5年間の留学を終え、24歳の時に外交官となる。

その後、堪能だった語学を生かし、ソ連との商談を成立させたり、多くのキャリアを積んだ。そして35歳の時、知人の紹介で知り合った幸子さんと結婚。2人の子宝に恵まれ、幸せな生活を送っていた。

そんな杉原の運命の歯車が回りだしたのは、1939年、第二次世界大戦が開戦する4日前のこと。日本政府は各国の動向を探るため、ポーランドの隣国・リトアニアに日本総領事館を開設する。

その時、領事代理として派遣されたのが杉原千畝(当時39歳)だった。

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現地で任されたのは近隣国の情報収集及び日本へのビザの発給。しかし、赴任してわずか4日後、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発してしまったのだ。

ポーランドを占領したナチスドイツは、平和に暮らしていたユダヤ人を次々アウシュビッツなどの強制収容所へ送り込む。強制収容所でユダヤ人たちは生きたまま人体実験に使われたり、ガス室送りで毒殺されたりと大量虐殺されるようになった。

多くのユダヤ人たちは、ナチスドイツに捉えられる前にリトアニアへと逃れてきた。そんなある日、杉原はその後の人生を変えることになる一人の少年と出会う。

それは行きつけの雑貨店を訪れた時のこと。女店主に「小遣いをくれ」と駄々をこねる少年がいた。話を聞くと、それは女店主の甥っ子で、自分の小遣いを食べるものに困っているユダヤ人の難民に渡してしまったから、映画を観に行くお金がなくなってしまったのだという。「困っている人を助けるのは当たり前でしょ?」という少年の言葉に杉原はハッとさせられた。この先ナチスドイツに占領され、家も食べ物も奪われ、命さえ失うかもしれないのに、この少年は自分のことよりも困っている人のことを優先していたのだ。少年の名前はソリー・ガノール。当時11歳だった。

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そしてこの少年の正義感あふれる行動は、杉原が後に6,000人ものユダヤ人の命を救うことに繋がっていった。

1940年、激化する戦争の中、杉原家には三男・晴生(はるき)くんが誕生。3人の子どもたちを前に、「この先どんなことが起きようとも、絶対にこの子たちだけは守る!」と杉原は心に強く誓った。

そんなある日、杉原に一通の手紙が届く。それはリトアニアを併合したソ連からの「日本領事館国外退去命令」だった。退去日まで1カ月となった頃、杉原がいる日本領事館はただならぬ気配に包まれていた。領事館の外に数えきれないほどの人たちがすがるような目でこちらを見つめ、立ち尽くしていたのだ。
彼らはナチスドイツの迫害に遭い、ポーランドから命からがら逃げてきたユダヤ人だった。

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当時実際にこの光景を目にした女性は「ナチスドイツから逃れてきたユダヤ人が、この領事館前に1日20人以上も集まっていました。彼らは何かを待ち焦がれる表情で1日中助けを求めていたのです」と語る。

ユダヤ人たちが求めていたのは日本を通過するためのビザの発給だった。しかし、彼らはなぜ遠く離れた日本を通過するビザが必要だったのだろうか?

ナチスドイツのリトアニア侵攻は時間の問題だった。もしリトアニアがナチスドイツに占領されてしまえば、ユダヤ人全員が虐殺されてもおかしくない状況。助かるためには一刻も早くナチスドイツの手の届かない国へと脱出しなくてはならない。しかしリトアニアから逃げようにも、南はすでにナチスドイツに支配されているポーランドなので不可能。西から海路で大西洋に抜けても、ドイツ海軍が待ち構えているのでこれも不可能。唯一残された脱出ルートは、ナチスドイツと敵対しているソ連を横断し、日本を経由してアメリカ合衆国などへ逃げるというものだった。つまり、ユダヤ人たちが生き残るためには日本の通過ビザがどうしても必要だったのだ。

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しかし、これだけ大人数のビザの発給を杉原の一存で行うことは出来なかったので、杉原は日本に発給許可を求めた。ところが、当時ドイツとの同盟を結ぶ話が持ち上がっていたため、外務省の答えは断じてNOだった。外務省に背くということは自分が職を失うということ。大切な家族を路頭に迷わせてしまう...。しかし、ユダヤ人たちにとってはこれが命のビザ。杉原は「命よりも大切なものなどない」と葛藤した。

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当時のことを、妻・幸子さんは生前このように話していた。「(夫は)苦しみました。それはいまだに忘れられないですね。子どもも小さくてかわいい盛りでしたからね。本当にあの時の苦しみはどうしたらいいかと思って。やはりビザを書けば(ユダヤ人の立場と)同じようなことになりますね。ナチスに捕まるかもしれない。外務省に反することなので外務省を辞めなければならない。命と職がかかっていますからね、主人も」

悩みに悩んだ末、杉原が出した答えは「ビザを発給する」というものだった。「何千もの命を私たちが見殺しにして行くわけにはいかない、と考えたんですね」と幸子さんは語る。

だが、ユダヤ人全員を救うためには、何千いや何万ものビザが必要だった。しかし杉原に残された時間はわずか1ヵ月。それは時間との戦いだった。

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寝る間も惜しみ、多い日には300通ものビザを発給。休まず働き続ける夫を見かねて幸子さんが手伝おうとすると、杉原は断固拒み、たったひとりで発給を続けた。それは万が一にも"家族に危険が及んではいけない"という家族への熱い思いからであった。

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「1枚のビザで1人の命が救える」と領事館の閉館期限を過ぎてもビザを書き続けた杉原だったが、1940年8月26日、ソ連により領事館を強制退去させられてしまった。街を去る駅のホームでも、まだビザを書き続けた杉原だったが、とうとうソ連兵に強引に列車に乗せられてしまった。それでも諦めきれず、最後のビザは走り出した列車の窓から手渡した。

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杉原の発給したビザによって命を救われたユダヤ人は6,000人以上。自らの地位を顧みず、人間としての選択をした一人の日本人は多くの命を救ったのだ。

ところで、帰国後の杉原についてテレビで語られたことは今まであまりなかった。日本に戻った杉原をどんな運命が待ち受けていたのだろうか。

1945年8月15日終戦。リトアニアを離れた後、ルーマニアで働いていた杉原は、敗戦国の外交官という理由で現地の捕虜収容所に連行されてしまった。家族ともども収監され、過酷な収容生活が1年半も続いた。終戦から2年、やっと杉原一家は帰国の途についたのだった。

だが、外務省登庁の日、国に背き無断でビザを発給した杉原は責任を問われ、退職を余儀なくされてしまう。働き盛りの47歳で職を失ったのだ。突然のことで再就職もままならず、極貧生活を強いられる杉原一家。そして、さらなる悲劇が家族を襲った! わずか5歳で過酷な強制収容所生活を余儀なくさせられた三男・晴生くんが白血病でこの世を去ったのだ(享年7)。

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職も大切な家族も失った原因はすべて自分にあるとの自責の念から、杉原はその後ビザについて語ることはなくなった。ところがビザ発給から28年たった1968年、68歳になっていた杉原は、在日イスラエル大使館から急に呼び出されたのだ。大使館を尋ねてみると白髪交じりの外国人が待ち受けていた。

「やっと約束を果たすことができました。」と話すこの人こそ、かつて杉原がビザを書いて助けたユダヤ人の一人だったのだ。古ぼけた紙を取り出すと「あなたの書いたこのビザが私の命を救ったのです。私だけではありません。大勢の仲間の命が救われました」と感謝の言葉を...。28年もの時を経て、自分がやってきたことがやっと報われた瞬間だった。

1986年、86歳で激動の生涯に幕を下ろした杉原千畝。彼の死後、リトアニアでは感謝の気持ちを込めて杉原の名前が通りにつけられた。さらに現地の教科書にも杉原の偉業が記載されている。また2007年には、リトアニアの首都に作られた杉原の記念碑を天皇皇后両陛下がご訪問なさっている。

杉原にビザ発給の決断をさせるきっかけとなったある人物が、彼を讃える言葉を残している。「あなたは天国においても必ずや輝ける地位を占められることでしょう」。戦火を生き抜いたこの91歳の老人こそ、杉原がリトアニアで出会った11歳の少年、ソリー・ガノールだった!

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最後に、生前杉原が残した言葉を紹介する。「私があの時ビザを出したことは、外交官として間違ったことだったかもしれない。しかし私には、彼らを見捨てることができなかった。もしあのような事態に直面したら、もう一度同じことをするに違いありません」

勇気を持って、人として正しい道を選んだ杉原千畝。彼が正しい判断をしたことは、後に人々が証明してくれた。かつて、このような偉業を成し遂げた日本人がいたことを、ずっと心に留めておきたい。

そして2月4日(月)夜9時放送「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」では...。

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患者にとって"最後の砦"。アメリカで他の医師が投げ出した高難度の手術を何度も成功させ、3000人以上もの命を救い、大感謝されている奇跡の日本人スーパー心臓外科医に密着。

日本人スーパードクター・豊田吉哉(53歳)。心臓外科のエキスパートとしてアメリカの他の医師が投げ出した難手術を何度も成功させた"ゴッドハンド"の持ち主。患者にとっては"最後の砦"だ。心臓を動かしたままメスを入れる、豊田先生しかできない高度な手術や、2人同時の肺移植という難手術にも密着。その天才的な手術の腕前、そして名医ならではの驚きの日常生活に迫る。

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世界ナゼそこに?日本人

世界ナゼそこに?日本人

世界で活躍する知られざる日本人を紹介する新番組。ナゼ海外で働くのか?日本から遠く離れた土地で働く理由を波欄万丈な人生ドラマをまじえて紐解いていく!

放送日時:テレビ東京系列 毎週月曜 夜9時放送

出演者

【MC】ユースケ・サンタマリア、新井恵理那 【ゲスト】三浦理恵子、東貴博、渡部陽一、大場美奈(SKE48)

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