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自らの命と引きかえに...ドイツで恐怖の伝染病から多くの人の命を救った日本人医師

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テレ東

2019.3.10 世界ナゼそこに?日本人

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世界で活躍する知られざる日本人を取材し、ナゼそこで働くのか、ナゼそこに住み続けるのかという理由を波瀾万丈な人生ドラマと共に紐解いていく「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」(毎週月曜夜9時)。「テレ東プラス」では、毎回放送した感動ストーリーを紹介していく。

死後70年以上経った今も、ドイツで讃えられる日本人医師


今回スポットを当てるのは、戦後混乱期のドイツで、自らの命と引きかえに多くの人の命を救った伝説の日本人医師。今から約70年前、とあるドイツの田舎町で蔓延した恐怖の伝染病に立ち向かった日本人とは?


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番組スタッフはドイツに飛び、その日本人に深い関係がある、ポーランドとの国境付近にある町リーツェンに向かった。「この辺りで有名な日本人は?」と問うと、お年寄りから子供まで多くの人が「コエヌマ」と答えた。


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リーツェンの市長を訪ねると、「コエヌマルーム」と呼ばれる資料室に案内された。そこに飾られた写真の人物こそ、恐怖の伝染病・発疹チフスから多くの人の命を救った日本人医師・肥沼信次だ。


功績を讃え、町の名誉市民に選ばれた肥沼。町にはその名前を冠した公園があるほか、その生涯を綴った本まであり、現地の高校の教材として使われている。


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さらに、肥沼が生涯を終えたリーツェンには、墓まであった。死後70年以上経った今でも、墓参りに訪れるドイツ人は多いのだという。

ガン治療の研究のため留学したドイツで伝染病が蔓延


1908年、東京・八王子で生まれた肥沼。幼少期は開業医だった父の姿を見て育った。全ての患者に真摯に向き合う父に強く影響を受けた肥沼は、医学の道を志す。


20歳の時、日本医科大学に進学し放射線医療を専攻。卒業後は現在の東大にあたる東京帝国大学医学部で放射線治療の研究に没頭する。放射線は、当時最先端のガン治療として注目を集めていた。研究が進めば、大勢の人が救えるはずだと考えたのだ。


当時、放射線治療の研究が最も進んでいた国のひとつがドイツだ。肥沼は29歳で憧れのドイツ留学を果たす。ベルリン大学で研究に明け暮れていたが、1939年9月に第二次世界大戦が勃発。日本大使館はベルリン在住の日本人に帰国勧告を発令した。


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日本人の多くが帰国していく中、肥沼は「今後、放射線治療の研究が進めば、ガンで苦しんでいる人も救えるかもしれない」という強い信念のもと、研究を続けるためドイツに残った。


その後戦争は激化し、ベルリンは陥落、ドイツは無条件降伏した。ソ連軍の支配下におかれたドイツ人は、続々と捕虜になっていく。肥沼はベルリンを脱出し、田舎町エーベルスヴァルデに疎開。診療所を開いた。


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数日後、診療所にソ連軍の司令官が現れた。ついに捕虜になるのかと身構える肥沼に、司令官は「リーツェンにある伝染病センターを助けてください!」と訴えたのだ。


リーツェンで、猛威を振るっていたのは発疹チフス。シラミが人の皮膚を刺すことで感染し、体中に薄紅色の発疹が出て、40度近い高熱を伴う伝染病で、毎日多くの人が亡くなっていた。


伝染病は専門外だという肥沼に、司令官は「あなたしかいないんです!」と必死に頼み込む。リーツェンでは戦争で多くの医師が亡くなり、深刻な医師不足に陥っていたのだ。


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「放射線の研究だって多くの人を救うために始めたこと。目の前で困っている人に手を差し伸べないなんて、医者じゃない!」

自分の命と引きかえに...献身的な治療で人々を救う


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治療を引き受けた肥沼は、1945年9月、リーツェンの伝染病治療センターにやってきた。患者が床にまで溢れた悲惨な状態で、看護師はわずか7人。医師は皆、感染を恐れて去ったという。肥沼の「患者を見捨てるようなことはしません」という言葉も、看護師たちに信じてはもらえなかった。


看護師たちは感染を恐れ、薬は患者の枕もとに置くだけ、替えのシーツはベッドに投げ入れていた。そんな中、肥沼は患者との接触をいとわない。
「この人たちの命を救うのが私たちの仕事じゃないか!」


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肥沼はシラミが寄り付かないよう消毒を徹底し、清潔にすれば自らの感染を防げると確信。常に先頭に立ち、不眠不休で毎日献身的に治療した。その姿に看護師たちの態度も変化。肥沼のように消毒して積極的に治療を手伝うようになった。言わば「チーム肥沼」の誕生だった。


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患者の中には、小さな子供も。5歳のカール・タンメくんもその1人だ。肥沼は「早く病気を治して、満開に咲く日本の桜を見に行こう」と励ましたという。


ここで新たな問題が発生する。患者が多すぎて、チフスの薬が底をついてしまったのだ。薬局は戦争で破壊され、薬の入手は不可能。肥沼は、遠く離れた町まで出向いて薬をかき集めた。患者のため、夜通し食料の買い付けにも奔走。


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当時、肥沼とともに働いた看護師フィードラーさんはこう語る。
「先生は自分のことより『ただ患者の命を救いたい』、その一心で治療にあたっていました」


1946年3月6日、肥沼はついにチフスに感染。看護師が薬を飲ませようとすると、なんと肥沼は「他の患者さんに使ってくれ」と...。一度も薬を口にしなかった肥沼は、発症してわずか2日後の1946年3月8日、37歳でその生涯を閉じた。


チーム肥沼はのべ400人以上の命を救ったとされる。肥沼亡き後も、遺志を継いだ新たな医師たちがより多くの命を救うことに。まさに、肥沼が起こした歴史的大偉業だった。

肥沼の死後43年、日本の新聞記事に


肥沼が亡くなって6年後、ようやく日本の遺族に死亡診断書が届くが、詳細は不明。日本を出てからのことを家族が知る術はなかった。が、肥沼の死後43年経った1989年12月14日の新聞に、リーツェンの町長が肥沼の遺族を探しているという記事が!


なぜ43年も経ってから日本の新聞に? 掲載当時の町長、シーベルトさんによると、町を救ってくれた感謝の気持ちをすぐに日本の遺族に伝えたかったのだが、旧ソ連の支配下にあった東ドイツ側にあるリーツェンは、ベルリンの壁の影響で情報規制があり、伝えることができなかったのだ。


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記事で真相を知った肥沼の弟・榮治さんは、リーツェンにある肥沼の墓に手を合わせ涙したという。現在、命日の3月8日には毎年"肥沼の式典"が開かれている。そこには、榮治さんが寄贈した日本の桜が。


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式典の参加者には、かつて肥沼と桜を見る約束をした少年、カール・タンメさん(78)の姿も。初めて桜を見たとき涙が溢れたカールさん。73年間、感謝の思いを忘れたことはないという。


自らの命と引きかえに、果敢に伝染病に立ち向かった名もなき1人の日本人医師。彼が救った尊い命は、満開に咲いた桜のように強く生き続けている。


そして3月11日(月)の放送は、夜8時から「世界ナゼそこに?日本人 ナゼか秘境で驚き原始生活&スゴすぎる日本人職人2HSP」をお届け。


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中米グアテマラの秘境で原始的生活を送る日本人女性。家は隙間だらけ、洗濯は川で。電気やガスはなく、暗くなると毒サソリに襲われることも? 家にある物を勝手に売ってしまう、自由すぎる収入ゼロ夫が悩みの種。この女性が秘境の森で原始生活を送る超意外な理由とは? さらに、ベルギーに本物の和食を広め、国民栄誉賞級の勲章を授与されたスゴ腕職人に迫る!

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番組情報INFORMATION

世界ナゼそこに?日本人

世界ナゼそこに?日本人

世界で活躍する知られざる日本人を紹介する新番組。ナゼ海外で働くのか?日本から遠く離れた土地で働く理由を波欄万丈な人生ドラマをまじえて紐解いていく!

放送日時:テレビ東京系列 毎週月曜 夜9時放送

出演者

【MC】ユースケ・サンタマリア、新井恵理那 【ゲスト】小栗旬、高良健吾、東貴博、渡部陽一、大場美奈(SKE48)

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