サッカー選手 中町公祐の挑戦。中村俊輔、中澤佑二とプレーした男はなぜアフリカに

サッカー

2019.5.14

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横浜F・マリノス 前列 右から2番目・中町公祐 写真:長田洋平/アフロスポーツ

そこに秘められたドラマをあなたはまだ知らない

今時、海外への単身赴任は珍しい話ではない。しかし、彼の場合は事情がだいぶ特別だった。サッカー選手、中町公祐。日本では華やかなスポットライトの中にいた。横浜Fマリノスの選手会長を務め、中村俊輔や中澤佑二とプレーし、推定年俸4千万円を得ていた。

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しかし、サラリーマンの平均所得の10倍となる高額な年俸を捨ててまで彼が選んだのはアフリカのザンビア。サッカー選手という職業で渡航先は決まっているのに移籍先は未定。そんな状態で、2人の娘と妻を日本に残し挑戦するのだという。

なぜ?

我々は彼の挑戦に密着した。足を踏み入れたアフリカの大地。まず向ったのはチー散歩。チー散歩とはチーターの散歩のことで二千円ほどでできる。

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ここはザンビア。アフリカ屈指と言われる野生の楽園。日本から飛行機を乗り継ぐこと30時間。アフリカ大陸の南、内陸の中央にある。首都ルサカには近代的なビルが林立。FIFAランキングは82位につけている。

今回の発表があったのは今年の年明け。中町の意外過ぎる移籍希望に周囲は驚きニュースになった。なぜなら中町は横浜Fマリノスの中核を担う選手だったからだ。

クラブからは2年の契約延長を提示されていたにも関わらず、それを断ってザンビアへ。代理人もいない中、自ら移籍先に売り込みをした。

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示された年俸はかつての数十分の一。だがとにかく、サインにこぎつけたことが何よりだった。就労ビザの取得は後回し。練習に合流する予定も、まだ立っていないがこれがアフリカ。なし崩し的に新生活は始まった。

移籍に関してはもどかしさが募っていた。契約は交わしたものの、アフリカ流の大らかさでチーム合流が遅れていたのだ。予想のつく苦難に彼はなぜ飛び込んだのか。

高校を出るとJ2の湘南ベルマーレへ入団した中町だったが、わずか3年で戦力外通告を受けた。人生の転機、一度目がこの時だった。

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実は中町、プロ入団と同時に慶応大学にも入学していた。そのためプロを解雇された彼は大学の部活にいそしみ、アマチュアの生活から、それまでの自分に足りなかったものを得る。

慶応大学では7年ぶりの一部昇格に貢献。リーグのベストイレブンにも選ばれ、その活躍がスカウトの目に留まる。三年ぶり、奇跡のJリーグ復帰はそうして叶う。

プロに戻ってきた中町はJ2にいたアビスパ福岡をキャプテンとして牽引し、見事一部昇格を果たした。2年後には横浜Fマリノスから声が掛かり、移籍する。後にチームの中核と認められ、選手会長も任された。

しかし、ここで二度目の転機はやってくる。同じ大学出身の美季さんと結ばれ、二年後に長女を授かった中町。その後、二人目の命が宿ったが、その息子は生まれて43時間で息を引き取った。

避けようのない胎内での悲劇。羊膜がへその緒に絡みついて酸素を止めてしまうという極めて稀な症例だった。天に召された息子は父たる自分に、生きることの意味を問い掛けてくれた。だから今、中町はアフリカ大陸にいる。単身赴任中の彼の枕元には我が子のお骨が。

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2013年から、慶應大学の同級生が代表を務めるNPO法人を通し、アフリカの子供たちにサッカーボールを送る「PASS ON PROJECT」を続けてきた中町。

縁あって抱いたアフリカへの興味。それが移籍の入口だった。

現役だから、できること。
現地でこそ、できること。
だから移籍を決断した。

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中町はザンビアへの移籍と並行してNPO法人を設立。医療支援など様々な活動を始めた。今振り返れば、幾つもの縁が自分をこの大地へといざなっていた。

ヒューゴスタジアム。西アフリカ、ガーナの地にそのサッカー場はある。築かれた架け橋。自分のサッカー人生と今は亡き我が子と、その二つを、アフリカという大地が結んでくれている。

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中町が所属するチームはザンビア代表が顔を揃える強豪。ポジションの確約はなく厳しい競争が待つ。けれど負けない。絶対に。その戦いに勝ち抜いて、天国から見守る息子に報告してみせる。