上田仁が選手生活に終止符を打つ。引退発表があった3月3日にはパリ五輪代表・戸上隼輔(井村屋グループ)のプライベートコーチ就任も電撃発表され、日本のファンや卓球関係者をあっと言わせた。
欧州最高峰のプロリーグ・ブンデスリーガで卓球選手としても、一人の人間としても成熟した上田。まだまだ強くなれるはずの彼のプレーをもう少し見ていたかった。
だが、戸上と目指す2028年ロサンゼルス五輪への挑戦はラケットを置くに値するネクストステージと言えるだろう。
「チーム戸上を作りたい」と意気込む上田の強化体制のイメージとは? 引退間際の心境とあわせて聞いた。
左からアレグロ、上田、ゼリコ、シュテガー 写真=Philipp Wohlfart
やり切った満足感「吹っ切れて解放された感覚」
「(引退発表直後)思った以上に反響があってびっくりしました。厳しい声もあるかなと思ってたんですけど、次のステージへの期待が大きいなという印象です」
また一つ、大きな決断をした上田仁の声は明るい。
2023年8月にドイツへ移住してから約1年半。異国での暮らしにすっかり慣れた妻と2人の子どもは、上田の所属チームであるTSV Badケーニヒスホーフェン(以下、ケーニヒスホーフェン)のホームマッチを今月3日に見届け帰国した。
上田の家族。左から上田、母・由美子さん、父・弘樹さん、妻・充恵さん。前列は長男と長女
試合当日は京都・舞鶴から上田の両親も駆けつけ、ブンデスリーガでプレーする息子の雄姿を初めて会場で見守った。
「両親は僕の引退に寂しさがあるようですが、心配していたよりも充実した生活を送っていると分かって安心したみたいです。石の上にも3年じゃないですけど、母(由美子さん)は『本当に辞めていいの? あと1年なんじゃない?』と言っていました。
父は『辞めるなら最高の形で終われ。20勝はしたいな』と僕の個人成績を計算していて、実際20勝(3月26日現在)に到達できたので良かったです。
多くの選手が怪我や成績不振で引退を余儀なくされる中、今が一番強いと思える状態で引退を決断できるって、すごく幸せなことだと思います」
「自分のメンターは妻」と上田が敬う充恵(みさと)さんも、戸上隼輔のプレイベートコーチに就くという夫の新たな挑戦を後押ししている。
思えばドイツ移住も充恵さんが上田の背中を押さなければ実現しなかった。
上田が東京五輪代表を目指せる位置にあった2019年秋。オーバートレーニング症候群の診断を受け1年以上、試合に出られず夫婦は苦しんだ。
そんな時、上田の母校である青森山田学園卓球部時代の恩師でケーニヒスホーフェンを指揮する板垣孝司監督から「ドイツへ来てみないか」と声がかかった。
迷う上田に「ドイツ行きは前向きな"逃げ道"。家族一緒なら何とかなる」と発破をかけたのは充恵さんだ。
「背中を押したなんてもんじゃない。崖から突き落としたんです」と笑う充恵さん。だが、戸上のプライベートコーチのことは上田が自ら決断し、充恵さんも賛同する形で現役引退が決まった。
「『戸上のコーチになりたい。力になりたい』って本人に電話で伝えて、翌朝には「ぜひお願いします」と戸上から返事をもらいました。それが昨年秋のWTTチャンピオンズ モンペリエ(10月22~27日)のすぐ後。もう告白です(笑)」
とはいうものの、本当にすっぱり選手を辞められるのか? 自分に問うため、昨年9月と11月にWTTフィーダーシリーズに出場。約5年ぶりの国際大会だった。
いずれもフランスとドイツの若手に敗れたが、「悔しいよりも、またこの舞台に戻ってこられたことに満足している自分がいました」と上田。
「心が決まったら気持ちが吹っ切れたのか、その後、自分の卓球が良くなってブンデスリーガでめっちゃ勝ちました。今は解放された感覚で卓球ができています」と話す上田の表情は清々しい。
「チーム戸上を作りたい」イメージはフランス最強のチーム・ルブラン
気になる戸上の強化体制についてだが、コーチと選手の二人三脚よりも、将来的にはもう一人加えた3人体制が理想だと上田は考える。理由はこうだ。
「戸上がまず目指すのは世界ランクトップ10入り。そこから国際大会のタイトル獲得とロサンゼルスオリンピック出場、そしてメダル獲得というロードマップがあります。ただ、選手一人で大きな目標に向かって走り続けるのはあまりにもきつい。
僕にも経験がありますが、本人にしか分からない苦悩だったり感情だったりに寄り添う存在が必要だと、戸上と話して感じました。だから僕は指導者というよりも戸上と一緒に走る伴走者になりたい」
さらに戸上には「戦術面で知らないことがまだまだある」とも。そして戦術を試合で実行するための技術指導にはフィジカルトレーナーが欠かせないと上田は考える。
上田仁 写真=Philipp Wohlfart
この考えに至ったのは昨年9月、戸上の所属チームであるオクセンハウゼンの本拠地で「チーム・ルブラン」と練習したことがきっかけだった。
チーム・ルブランはフランス最強の卓球兄弟、兄アレクシスと弟フェリックスの強化チーム。
ルブラン兄弟は地元開催のパリ五輪で男子団体銀メダルを獲得し、弟のフェリックスはシングルスでも大会最年少メダルの銅メダルに輝く偉業を成し遂げた。
彼らをサポートするのはプライベートコーチのナタナエル・モラン氏とフィジカルコーチのジェレミ・スロー氏、さらに理学療法士、ドクターら20人超の専門家たちだ。
「チーム・ルブランは、卓球のスペシャリストであるコーチと体のスペシャリストであるフィジカルトレーナーが密に相談して強化を進めています。
モランコーチが『こういう技術をマスターするにはどうすればいいだろう?』とフィジカルトレーナーに相談すると、『もっと体のここに力を入れることを意識した方がいい』という感じで、すごく理にかなった指導をしているんです。
それを見て僕も行く行くは体の構造を熟知したフィジカルトレーナーの意見も交えて教えられれば効果的だなと思うようになりました」
さらに、はっとさせられたのが「コーチの仕事は技術を教えるだけじゃない、教養も教えるんだよ」というモランコーチの話。
もともと僕は学生の頃、学校の先生になりたいなと思っていたこともあって、すっげえいいなと思いました。例えばモランコーチは試合の遠征先に向かう飛行機の中で『いつもよりフライト時間が長いけど、なぜだろう? 世界では何が起きているんだろう?』と兄弟にたずねるそうです」
世界情勢など卓球以外のことにも目を向けることで視野が広がり、物事を広く捉えられるようになるからだ。
すると卓球でも視点が変わり多彩なアイデアが浮かんで来る。それがルブラン兄弟の独創的なプレーの源となっている。
その感覚は、日本では出来ない経験をドイツで積んだ上田の中にもある。
「あの若さ(24歳)でドイツに一人で来て頑張っている戸上なら、この感覚を理解してもらえるはず」
そう言う上田もまだ33歳で、社会でいえば十分に若い。
それなのにすでに達観したような佇まいには父・弘樹さんの影響もありそうだ。
「父はいつも『選手は結果を出すことが大事だが、人生を語れるようになれ。人間の深みが出る選手になれ』と言っていて、『本当にトップを取る選手は自分を律して、人として強くなければダメだ』とも言います。
僕はトップになれなかったけれど、ストイックにひたむきに努力できる戸上にはその能力や可能性がある。戸上なら出来ると信じています」
上田仁 写真=Philipp Wohlfart
現在チームランク3位のケーニヒスホーフェンと上田はブンデスリーガ男子1部のレギュラーシーズン最終戦に向け調整中。この最終戦に勝てば確実に2季連続のプレーオフ進出が決まる。
対戦チームはカットマン・村松雄斗(霧島整形外科病院)も所属する、同5位のザールブリュッケン。
フランツィスカ(ドイツ)やヨルジッチ(スロベニア)らがいる強豪チームだが何としても勝ちたい一戦だ。
ちなみに戸上のオクセンハウゼンは同2位以上が確実でプレーオフ進出が確定。
上位4チームが駒を進めるプレーオフ。上田の運命の大一番は日本時間30日の深夜2時から行われる予定。師弟そろってのプレーオフ進出なるか。
(文=高樹ミナ)
卓球 WTTスターコンテンダーチェンナイ2025
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