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第4回 徳川家康

 1542年、現在の愛知県、三河の国岡崎城主、松平家の跡継ぎとして徳川家康、幼名・竹千代は生まれた。弱小大名だった松平家を守るため、わずか4歳で尾張の織田家の人質となり、6歳からは駿河の今川義元の元へとたらいまわしの人質生活を送る。その間には、父・広忠が家臣の裏切りにあって殺されるなど、大名の子でありながら不憫な生活を強いられた。しかし1560年、家康17歳の時、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れる。長い人質生活からようやく解放された家康は、戦国武将としての人生を突き進んでいく。

そんな家康に、その後の生き方を大きく変えることとなったエポックメイキングな戦があった。それが、1572年12月22日の「三方原の戦い」。30歳の若き家康は、現在の静岡県西部にある三方原で、戦国時代最強と恐れられた武田信玄と戦った。結果は、信玄の巧妙な術中に陥り、人生初の大敗北。命からがら戦場から脱出した家康は、信玄の騎馬軍団に追われ、死をも覚悟しながらの敗走の途中に信じられないトホホなことをしでかしてしまったのである。
 

必死に浜松城にまで馬を飛ばしていたその時、馬上の家康は、あまりの恐怖に大きい方をもらしていたのだ。そして、なんとか居城の浜松城まで逃げ延び、駆けつけた家臣にそのことを指摘されると、恥ずかしさのあまり、非常食用の「焼き味噌だ」と言い訳をしたという。さらに家康は、なぜか絵師を呼び寄せ、疲労困憊、情けなさ過ぎるその時の顔を絵に残したのである。肉の厚いふくよかな家康からはかけ離れ、やせこけた焦燥の色が浮かぶその顔。「しかみ像」と名づけられた、この惨めな自画像を、家康は生涯手元に置き、蛮勇を改め、慎重を重ねることを自らの戒めとしていったという。
 

3年後の1575年、家康32歳の時、長篠の戦いで、再び武田軍と激突した家康は三方原での敗戦の教訓を生かし、当時としてはケタ外れの3000丁もの鉄砲隊を手配、必勝の布陣を長篠に敷き、ついに武田勝頼率いる最強騎馬軍団を破滅に追い込んだのであった。だが、その後も家康は決して無理をしなかった。ひたすら時を待ち、しっかりと天下取りのための土台を固めていく。長年同盟関係にあった織田信長を本能寺の変で失った後は、ライバルの豊臣秀吉を静かに支えつづけ、その秀吉亡き後、ついに天下を取る。この時家康は、すでに60歳であった・・・。
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テレビ東京