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2009年5月21日(木)の内容
篤姫と夫・徳川家定に愛はあったのか!?




幕末、時代に翻弄されながらも家を守り、江戸を守り、愛に生きた女性がいた。それは、13代将軍・徳川家定の正室、天璋院篤姫。薩摩藩・島津家の分家の娘として生まれ、その後、藩主・斉彬の養女となり、1856年、13代将軍・徳川家定の正室として大奥へ入った篤姫。
分家の娘の身でありながら、江戸に行き、しかも将軍の正室になることは、篤姫にとって青天の霹靂だった。家定は結婚から1年半後、わずか35歳の若さで病死、その10日後には義理の父である斉彬も他界してしまった。家定との間に子供を設けることもできず、何のために遠い江戸へやってきたのか・・・。
生きる目的を失いかけた篤姫だったが、そんな時、14代将軍に当時13歳の家茂が就任、子供ができなかった家定の跡取りとして迎え入れられたのだ。そして、その家茂を養母として育てることが、篤姫の何よりの生き甲斐となったのである。
ペリー来航以来、度重なる外国からの圧力に失墜しはじめた幕府の権威を復活させようと「公武合体」が画策された。その象徴となったのが、家茂の正室として大奥へ入った、時の天皇の妹・和宮であった。徳川家に嫁ぐことを頑なに拒んだ和宮は、宮中と同じような生活をさせるという、大奥では異例の条件が認められた。
そんな和宮と家茂の仲が上手く行くか心配する篤姫だったが、和宮を残し家茂が逝ってしまう。失意にくれる篤姫、その前に現れたのが新たな徳川家の当主となった9歳の家達。その家達が20歳で結婚するまで、女手一人で立派に育て上げたのだ。徳川家の母として、家茂、家達を育て上げた篤姫は家定の世継ぎの出産を期待して大奥に迎え入れられたが、1年半の結婚生活で懐妊の兆しは一度もなかったという。
なんと、篤姫と家定には「愛し合っていなかった」という説があるのだ!今回はこのミステリーを徹底検証!

一の説 「偽りの愛だった」
昨年、大ヒットして社会現象にもなった大河ドラマ「天璋院篤姫」の原作者は、何度も鹿児島に足を運び、本物の篤姫に近づけるように資料をかき集めて徹底的に読み込んだという。その結果、篤姫はとても強情で、幼い頃は乳母としょっちゅう喧嘩をするほど気が強く、協調性がなかったということを知る。
我々が認識している篤姫像とは、ずいぶん違うではないか!篤姫の真の姿を明らかにすべく、我々はさらに調査を進めた。
すると、篤姫が大奥入りする前夜、養父・斉彬が篤姫に下した驚愕の密命が、動乱の幕末をまとめた文献に記されていたのだ!篤姫が大奥に送り込まれた本当の目的、そして、家定の知られざる真の姿とは・・・?
二の説 「愛し合っていた」
貧しい島津の分家から将軍に嫁いだ篤姫を待っていたのは、古くから大奥に仕える女たちのイジメだった。厳しい大奥の暮らしの中で篤姫の支えとなっていたのは、夫・家定との時間だけだった。
じつは家定は三度目の結婚だったのである。一度目の相手も二度目の相手も公家の娘であり、それぞれ病死、急死という結末を迎えた。そんな家定のもとに、お嬢様育ちでプライドが高い公家の姫様とは対照的な、穏やかで忍耐強い篤姫がやってくる。誰に対しても分け隔てなく接することができる篤姫に、家定は心ひかれていったのだろう。
また、家定自身も、家臣に料理を作って振る舞うなど、とても心優しい人間であった。篤姫もまた家定の優しさに惹かれ、二人は互いに気を使い、信頼しあっていた。
1854年、黒船が来航した際、家定はペリーから多数の献上品をもらっている。その中から家定は、当時ではとても珍しいものを篤姫にプレンゼントしているのだ!また、家定の葬儀のとき、篤姫は柩の中にあるものを入れている・・・。
そのほかにも、二人の間に確かに愛があったことを裏付けるエピソードが明らかになる!

