『お家へ帰ろう』
2016年1月27日
これは、ある小学2年生の少年に起こった不思議な出来事だ。
夕暮れの時刻にしては薄暗い。
雨の降る公園に、人気もなかった。
巨大な木の根元で、雨をしのぎ、少年は浮かない表情をしていた。
背中のランドセルの中には、今日学校でもらった「1」や「2」が並んだ通知表が入っている。
これを母親に見せる事が、今の彼にとっての一番の恐怖だった。
「帰りたくないなぁ…」
そんな事を考えていたら、自然と通学路を外れ、いつも友人と遊んでいるこの公園へと足が向いていた。
だが、雨のせいだろうか、今日は誰も公園には現れなかった。
お腹の虫が、限界と言わんばかりに鳴き喚き、ここにずっといるわけにはいかない事を、彼はやっと受け入れた。
…帰ろう…
青い傘をさし、公園を出ていく。
するとどこからか女の子の囁く声が聞こえてきた。
「帰らなくていいよ…」
…辺りに、人影はない。
だが、声は妙にハッキリと聞こえる。
「帰らなくていいよ…」
…今度は大人びた男の声だった。
頭上にある、歩行者専用標識が目に入る。
青い背景に、白い大人と子供が描かれた、その標識。
少年は目を疑った。
描かれた白い子供の手が動き出し、手招きをしているのである。
「帰らなくていいよ…」
続いて白い大人の手も動き出す。
「…こっちにおいでよ…」
そして、その手は標識から飛び出すように、少年に向かって近付いて来る。
少年は息を飲み、慌てて、近くの駄菓子屋へと駆け込んだ。
いつもなら、子供たちがテーブルゲームを取り合い、賑わっているこの駄菓子屋。
なぜかここにも誰もいなかった。店番をしているはずの、老婆の姿もない。
だが少年は、今見た光景に困惑する事で忙しく、それに気を止める事はなかった。
恐る恐る店の窓ガラス越しに、外を覗く。
降り続く雨に打たれる歩行者専用の標識は、何事もなかったかのようにそこにそびえ、その傍には少年の青い傘が転がっている。
き、気のせいだったのかな…
少年は深く息を吐き、呼吸を整える。
…早く帰ろう…
少年は、その場を去ろうとする。
「帰らなくていいよ…」
…誰もいない店内に響いた、不気味な声。
振り返ると、背後のテーブルゲームの画面から黒い手がニュルリと飛び出していた。
「帰らなくていいよ…こっちにおいで…」
手招きをするように、大きな黒い手は少年に近付く。
少年は小刻みに震え、駆け出した。
が、何かに引っ張られるような感覚が走る。
黒い手は彼のランドセルを鷲掴みにしていたのだ。
そのままズルズルと引きずられ、少年は後退していく。
「た、助けてー!だ、誰かー!」
その声は、虚しく店に響き渡る。
黒い手と共にランドセルは画面の中へに食い込んでいく。
少年の身体が反るような形となり、その目から涙が溢れる。
そして混乱の中、気付けば背負っていたランドセルを肩からはずし、その場を一目散で逃げ出した。
「帰らなくていいよ…帰らなくていいよ…」
雨音と共に、不気味な声が次々と少年の耳にまとわりつく。
どこから聞こえてくるのかは分からない。
だが、その声に振り向いてはいけない、そんな気がして、少年は必死に走り続ける。
そして、やっとの思いでたどり着いたのは、少年の自宅。
雨と涙でぐしゃぐしゃになった少年の顔に、少しだけ安堵の様子が伺える。
帰りたくないと思っていた自分の家が、今は恋しい。
恐ろしいと思っていた母親に、早く会いたい。
少年は、よろよろとした足取りで、玄関に向かい、扉を開く。
そこから心配そうな顔をした母親の顔が現れるはずだった。
しかし、開いた扉の中から現れたのは、大きな大きな手。
少年が、それを目にしたのも束の間。
玄関から腕がニュルリと伸びた大きな手は少年の身体を包み込む。
「…おかえり…」
どこからか母親のような優しい声がしたのだが、それを耳にした者は、いなかったと言う。
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