『言いたい口』
2016年3月23日
ある残業帰りのサラリーマンの男は、今日も終電に乗り込んだ。
連日の激務からか、全身が重く、とてつもない睡魔が彼を襲っていた。
電車のシートは、同じように疲れ果てた人々で埋め尽くされていた。
OL風の女性と、中年男性の間に、唯一残された空席を見つけ、男はそこに腰を埋める。
右隣の女の香水の匂いと、左隣の中年男性の酒臭さが、男の鼻を刺激してくるが、
それに勝る睡魔が彼を襲い、男は目を閉じた。
電車に揺られ、しばらくすると、右隣の女から、何やら呟く声が聞こえてきた。
「何よ…しつこく口説いてきた癖に…」
何か怨念が篭った様なその声に、男はチラリと目をやる。
壁に後頭部を預け、眠るOLの横顔が目に入る。
…ね…寝言…?
男は、ため息をつき、また目を閉じる。
すると今度は、左隣の中年男性から呟く声が聞こえてくる。
「ったく…オレは毎日毎日、家族の為に働いてきたってのに…」
…え?こっちも…?
男はうっすらと目を開け、酒臭い中年男性が鼾をかいて眠っている姿を確認する。
…頼むから、ちょっとくらい寝かせてくれよ…
男は、心の中で呟き、また目を閉じる。
「ああ、ムカつくムカつく!何なの?いきなり受付嬢と結婚って。
だったら、最初から私と付き合う気がなかったってこと?意味わかんない!」
女の寝言はエスカレートしていき、泣き声交じりになっていく。
男は女を見る。
すると横顔の女の口は堅く閉ざされ、
ギリギリと歯軋りの様な音を出していた。
…彼女の寝言ではないのか?いや、でもハッキリと彼女の方から聞こえた。
…では、寝言はどこから聞こえたんだ?
電車が大きく揺れ、女の頭がダラリと前に垂れる。
女の長い髪の毛の隙間から、うなじが見え、そこには、人間の唇が現れる。
その唇から、ぺちゃくちゃとしゃべり続ける女の声が聞こえてくる。
「全然相手にしなかったわけじゃないでしょ?
食事だって何回か行ってあげたし、バレンタインにチョコだってあげたし、義理だけど。
ちょっとくらい付き合ってみようかなー?って気になってきてたのに…」
男の眠気はどこかに消え去り、その光景に目を疑った。
すると突然、左隣の男性から怒号が発された。
鼾をかいていた中年男性の頭も前に垂れ下がっている。
そして、彼のうなじにも同じように唇があり、ベラベラと生唾を吐き出しながらしゃべっていた。
「いきなり離婚って何なんだ!家庭を顧みない!?ふざけるな!
オレがどれだけ辛い思いをして仕事をしてきたのか!
アイツは何にも分かっていない!!慰謝料なんて払うものか!!」
男は、その異様な光景に、堅く瞼を閉じる。
「何かの間違いだ…これは夢だ…う、うなじに、口がついているわけない…
きっとオレは、疲れているんだ…だからこんな夢を見てしまうんだ…
早く帰りたい…家に帰って、子供の寝顔を見ながら、眠りにつきたい…」
男のうなじに露になった唇が、そんな事を呟きだした。
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