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2009年4月16日(木)の内容
江戸幕府開府の謎 春日局はなぜ将軍の乳母になれたのか?
一の説 「親のコネだった」
二の説 「春日局は家康の愛人だった」
三の説 「天海の策略だった」
四の説 「春日局は家光の実母だった」



“歴史の影に女あり”― 大奥を作った女帝・春日局は、日本の女性の歴史のなかでも類を見ない大出世を遂げた人物である。春日局の父親・斉藤利三は、あの本能寺の変で有名な明智光秀の重臣だったのだ。裕福な家庭に育ったお福だったが、4歳のときに、戦で負けた父が磔で処刑されてからというもの、春日局は親類縁者を頼って各地を転々。大変な苦労を強いられたのである。17歳の時に、中国地方を治める大名の筆頭家老だった稲葉正成に嫁ぎ、これで再び人並みの生活ができると思ったのも束の間、正成が仕えていた主君ともめ、突然、家老職を辞めてしまうのである。お福は子供5人を抱えたまま、再び浪人生活へ逆戻りしてしまったのだ。
しかし、そんなお福に転機が訪れる。江戸城開城時、2代将軍・徳川秀忠とその正室であるお江与の間に子供が生まれるので、乳母を募集するという高札を見つけた。お福はすぐに応募し、合格。26歳の時に、江戸城へ迎えられたのだ。1604年、後の徳川家光となる竹千代が誕生し、その乳母となったお福は家光を懸命に養育した。そんなお福に竹千代はよくなつき、それは実母であるお江与をしのぐほどであった。そして、お江与が竹千代の弟・国松を出産すると、暗雲が立ち込める…。お江与は国松を溺愛し、竹千代を嫌うようになったのだ。ここに、竹千代を次期将軍に推すお福と、国松を次期将軍に推すお江与の世継ぎ争いが勃発するのである。
そもそも、一介の浪人の妻が、次の将軍候補の乳母という重職に簡単につけるのは容易なことではないはず・・・。春日局には強力な後ろ盾がいたから江戸城に入れたのではないだろうか!?考えられる説は、「親のコネ説」「家康の愛人説」「天海が引き入れた説」「家光の実母説」の4つあり、その内容は驚くべきものばかりだが、どの説も説得力は十分!果たして、視聴者投票によって、どのような決着がつくのだろうか・・・?

天下人・豊臣秀吉の死因は、病死か? 暗殺か?
一の説 「病死」
二の説 「暗殺」
今から400年も前のこと、豊臣秀吉の人生の集大成とも言える史上空前規模の大花見「醍醐の花見」が催された。秀吉自ら陣頭指揮をとって実現させたこの一大イベントは、その規模や豪華絢爛さが京の庶民の間で話題となり、世間の人々に広まった。まさに天下人としてわが世の春を謳歌していた秀吉は、このわずか 5カ月後、京都・伏見城で61歳でこの世を去る。人間50年と言われる時代に長生きだと思うかもしれないが、戦で死ななければ、長生きした武将も少なくはないのである。江戸幕府初代将軍となる徳川家康は75歳で病死。独眼流で有名な伊達政宗は70歳で病死。加賀百万石を治めた前田利家は61歳で病死。粗食でよく働く戦国武将達は、実は健康で長生きだったのだ。秀吉が死去する1カ月前、謁見したポルトガル人宣教師が秀吉の様子を、『もはや人間とは思えぬばかり、全身痩せ衰えていた』と記録に残している。
醍醐の花見では元気だった秀吉が、たった5カ月後には人間と思えないほどやせ衰えるなど、ありうるのか?秀吉が死ぬまでの状況はいくつかの記録に残されており、それらに記された症状などから、「病死説」と「暗殺説」が考えられる。秀吉は、下痢・腹痛といった症状に始まり、15日間まったく食事を食べられず、さらには精神混乱や失禁といった症状が出ていたという。これらの症状に当てはまる「病死説」「暗殺説」、それぞれの見解とは・・・!?
さらに、「暗殺説」に関しては、秀吉がもっとも信頼した盟友が黒幕として、その実行犯に手引きしていた可能性があるという衝撃の事実が・・・!そこに隠された驚愕の動機とは・・・!?


