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2009年4月23日(木)の内容

戦国最大の謎! 本能寺の変の黒幕は誰なのか!?

1582年6月2日、京都の本能寺にごく少数の護衛といた織田信長は、家臣明智光秀の1万3千人もの軍勢から襲撃を受けた。光秀の謀反と知った信長は寺に火を放ち、天下統一を目前にして自ら49歳の生涯を閉じた。しかし、信長によって引き立てられた光秀が信長を討つことなど考えられるのだろうか?また、信長を討ったあと、光秀は秀吉をはじめとする信長の家臣たちと戦うことになるのだが、光秀の味方をする者はほとんどいなく、あっさりと倒される。事前の根回しもなく、天下取りの計画を立てていた様子は全く見えないのである。このことから、表舞台には現れていない黒幕が存在していた可能性が高いと考えられないだろうか!?

戦国最大の謎!本能寺の変の黒幕は誰なのか!?

一の説 「信長に恨みを抱いた光秀の単独犯」

黒幕は存在せず、通説どおり光秀が信長を討ったという説。信長は日本史上最大の“独裁者”と言われ、光秀はひどい仕打ちを受けていたのだ!信長の命により丹波を攻めていた光秀は、自分の母親を人質として敵方に差し出すことで城主を捕らえることに成功したものの、信長は人質になっている光秀の母に構うことなく城主の処刑を命令。結果、光秀の母も敵方の家臣に殺害されたのである。そして、決定的となったのは、おそらく「突然の左遷」だろう・・・。丹波、近江という2カ国を領有し、トップクラスの出世頭だった光秀から、突如、信長はその領地を取り上げたのである。

二の説 「天下取りを目論んだ秀吉の策略」

殺人事件でまず疑うべき人物は、被害者が死んだことによっていちばん得をした人物ということがいえる。信長亡き後、天下統一を成し遂げたのは豊臣秀吉である。そもそも、本能寺の変の直前、信長に出陣を促したのは秀吉である。毛利氏支配の備中高松城を攻めていた秀吉は、援軍など必要ないぐらい、圧倒的に有利な状況だったはずなのだが・・・。

三の説 「光秀と共謀した信長の妻の愛憎」

天下統一を目指していた尾張の信長にとって、もっとも脅威だったのは、美濃の斉藤道三だった。そこで、美濃と手を結びたい信長と、尾張に影響力を持ちたい道三の思惑が一致、道三は娘を信長に嫁がせるという政略結婚が行われたのだ。しかし、濃姫の記録はほとんど残っておらず、謎多き女性である・・・。濃姫は本能寺で信長と一緒に死んだとされているが、なんと!その死を覆す驚くべき記録が残されていることを突き止めた!さらに、濃姫の家系を調べてみると、驚愕の事実に辿り着く・・・!?濃姫が夫・信長を殺害!?“歴史の影に女あり”その知られざる真相とは・・・?

四の説 「信長の傍若無人さに怒った朝廷の陰謀」

信長は1577年11月に右大臣に任命されるが、半年後には職を辞している。その後、太政大臣、関白、征夷大将軍という、いずれも重要なポストのうち、どれでも好きな官位を進呈すると提案されるものの、信長はこれらをすべてはねつけた。つまりは、朝廷にはまったく従う意思がないことの表れだったのだろう。さらに、朝廷にとってもっとも重要な権限のひとつを信長が奪おうとしていたというのだ!そんな信長を消し去ろうと、朝廷側が信長殺害を目論んでいたことが明らかになる決定的な証拠が、今夜明らかになる!?