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2009年6月11日(木)の内容

愛と義の武将・直江兼続!なぜ直江家は兼続の代で断絶したのか?

400年以上前の戦国時代、常識を超えた斬新な発想で国を立て直した人物がいた!それは、愛と義の武将・直江兼続。幼い頃から賢く利発だった兼続は、その才能を見出され、上杉景勝に仕えるようになった。上杉謙信の死後、その子供だった景勝と景虎の間で後継者争いが勃発、これが世に有名な上杉家史上最大の内乱「御館の乱」である。当初、北条氏や伊達氏など越後周辺の大名が景虎につき、兼続が仕える景勝は劣勢に立たされていた。ところが、上杉家と長年のライバルであった武田家に援軍を依頼するという、兼続の常識を超えた発想と作戦が見事に的中し、両家は同盟を結ぶことに成功した。その結果、景勝は見事に勝利し、上杉家当主となった。その後も兼続は、豊富な知識と行動力、斬新な発想で農業や戦術、学問に貢献したのである。その活躍は、かの天下人・豊臣秀吉からも絶大な評価を受けたほどだった。
今なおその名を語り継がれる名将・直江兼続だが、その直江の名は歴史から消えることになる・・・。兼続は3歳年上の妻・お船との間に一男二女をもうけるものの、三人とも早くに亡くなっている。1619年、兼続も死去、その後、上杉家に全身全霊を尽くしてきた名家・直江家は断絶するのである。お船の再婚や養子の迎え入れなど、家を残す方法はいくらでもあったはずなのに・・・。今宵は二つの説から直江家断絶のミステリーに完全決着!

愛と義の武将・直江兼続!なぜ直江家は兼続の代で断絶したのか?

一の説 「兼続が愛と義にアツすぎたから」

兼続が少年時代を過ごした新潟県南魚沼市にある雲洞庵には「国の成り立つは民の成り立つをもって為す」という教えがあり、兼続はこの言葉を生涯の理想としていた。つまり、家臣や民を大事にすれば、おのずと上杉家は栄華を誇るに違いないということである。戦国時代、もっとも苦しい財政難に陥った際も「人こそ組織の財産なり!」と兼続の考えのもと、上杉は一切のリストラを行わず、家臣とその家族を守り抜いたという。主君・上杉家に対する兼続の“義”はアツイものだった。また、ほとんどの武将が多くの側室を持ち子供を産ませていた中で、兼続は生涯側室を一人も持たず、妻のお舟だけを愛し続けたばかりか、自身の兜に、あることを意味する『愛』という文字を入れていたというのだが、いったいどんな意味が込められていたのだろうか?愛と義にアツイ兼続が、上杉家の財政を助けるためにとった最後の手段とは・・・?

二の説 「権力を持ちすぎたから」

文武に長け、優秀であった兼続の権力は、主君・景勝を超えるほどとなり、上杉家の中で浮いた存在となっていたというのだ!その評判は天下にも広がり、かの豊臣秀吉から豊富姓を授けられるほどだった。また、当時東北地方を治めていた大名であり、戦国屈指の武将・伊達政宗を前にしても屈することなく、どんな巨大な権力にも媚びることはなかった。そんな兼続の態度は、周囲には傲慢に映っていたというのだ。さらに、50歳を過ぎても跡取りに恵まれなかった主君・上杉景勝の後継者問題に立ち入り、上杉家の中で反感を買ったというのだが、その信じ難い手段とは・・・?権力を持ちすぎた兼続は上杉家から危険視され、直江家は断絶させられた!?それを示すかのように、上杉家は兼続の葬儀を一切行っていないというのだ!