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2009年8月13日(木)の内容

石田三成&大谷吉継 熱き男の友情物語!吉継はなぜ負けると思っていて三成に味方したのか?

近江国坂田郡石田村、現在の滋賀県長浜市石田町で誕生した石田三成。まだ「佐吉」と呼ばれていた頃、手習いのため観音寺で修行をしており、そこへ鷹狩りに出ていた長浜城主・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が休憩のため立ち寄った。三成は秀吉のために茶を点て、その働きを気に入った秀吉は家来とした。生涯続く主従の関係が始まったのである。
秀吉の近習番の仕事をしていた15歳の三成を突然訪問してきたのが、当時16歳の大谷吉継だった。なんと吉継は、秀吉に仕官できるよう口利きをしてくれないかと、初対面の三成に頼んだ。戸惑う三成であったが、自分にはない豪胆さを吉継に感じ取り、驚愕の方法で秀吉に推薦したのだ!
天才的な知略で仕事をこなすものの、自信家であり、潔癖症、妥協をしないなどの理由から、三成は敵も多く、友と呼べる者がいなかった。一方、吉継は情に厚く、友も多かった。正反対の性格をした二人は、不思議とウマが合った。
そんな時、天下統一を目前に織田信長が死に、家臣・秀吉は天下統一のため戦を繰り広げた。そして、三成、吉継の活躍もあり、秀吉はついに天下人となった。二人は、“武の吉継”“知の三成”として、それぞれが自分にない才能を認め合い、天下統一の旗印のもと、生死をかけた戦いを続ける中でさらに友情を深めていったのだ。
その後も順風満帆に出世を繰り返す二人であったが、なんと!吉継が不治の病に冒されてしまい、さらに追い討ちをかけるように恩人・秀吉が死去・・・。豊臣家の大名の中で圧倒的な権勢を誇っていた徳川家康が、天下取りの謀略をはかり、秀吉の遺言を守らず独断で事を進め始めた。そんな家康に異を唱えた三成は、豊臣家の安泰のため家康を討つことに決めた。ところが、家康の強さを認めていた吉継は、家臣や家族のことを思えば友の企てに賛成できずにいたが、揺るがない三成の決意を知り、最終的には家康よりも友のために命を捨てることを選んだのだった。こうして、天下分け目の戦い・関ヶ原の合戦が勃発!負けると思っていながら、親友・三成のために本気で東軍に立ち向かい、友情に殉じた吉継。その吉継にそこまでの友情を抱かせた三成。熱き男の友情物語・・・しかし、本当にそれだけだったのだろうか?今宵は、大谷吉継が負けると思っていながら三成に味方したミステリーに決着をつける!

石田三成&大谷吉継 熱き男の友情物語!吉継はなぜ負けると思っていて三成に味方したのか?

一の説 「大谷吉継は豊臣秀吉の子供だった」

吉継の出生には謎が多く、父親の存在が特定できていない。母は、秀吉の正室である北政所のそばにいた侍女・東殿である。今回、秀吉が東殿に送ったという手紙を特別に公開!そこには、思いもよらない内容が記されていた・・・!?

二の説 「死期を悟っていたため、三成を守った」

吉継の病は顔や体から膿が出るほどの病気で、目も見えなくなり、歩くこともままならなかったという。吉継は、自らの先が長くないことを悟っていたのではないだろうか?関ヶ原の合戦の陣形が物語る、吉継の思いとは?また、関ヶ原の合戦地跡に建つ吉継の墓は、思いもよらない人物が建立していた・・・!?