土曜スペシャル

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放送内容
2010年3月20日 昔の地図で歩く
にっぽん全国再発見の旅
銀座:昭和6年の地図で歩く 川の街銀座めぐり


リポーター:丘みつ子、はしのえみ
昭和6年の地図で銀座を旅するのは丘みつ子とはしのえみの二人。
まず、旅のスタートは京橋。当時の銀座は東洋のベニスと称されるほど川が多く残っていた。明治・大正の橋の欄干が残る京橋をスタートし、向かったのが江戸箒・白木屋伝兵衛。銀座に川が流れていた頃、竹が多く岸に荷揚げされていたことから竹河岸と名づけられた岸の近くでお店を開いた白木屋伝兵衛。昭和6年の地図にも、「白木屋箒店」と載っている。次は「奥野商会」へ。地図の場所に現在建っていたのは昭和7年竣工の奥野ビル。昔のエレベーターを使い3階へ。当時の面影を残す306号室と、ビルの中に研究所を持つ「松岸研究所」へとおじゃまする。
少しお腹がすいたところで地図の裏面に書いてある、料理の欄に「辧松」を発見。歌舞伎座に芝居を見に来た人たちに愛される辧松の弁当。実は昭和6年当時は、歌舞伎座の中にも店舗を持っていたという。歌舞伎座の前にある辧松でお弁当を買い公園でお昼を食べる。砂糖や醤油を大量に使って煮た里芋とうま煮は昔から変わらない味だという。
また、地図の裏面に名家の欄を見つける二人。一番大きく書かれている「吉田幸次郎」を探す。地図の場所にあったのは「銀座吉田」。実は最上階に吉田幸次郎の家族が住んでいた。
続いてソニー通り近くにある眼科を発見。地図には中泉医院とあるが、現在は研医会診療所と名前を変えていた。またその病院の上階には図書館があり、解体新書や江戸時代の眼科の本など貴重な本の数々が所蔵されている。 次に向かったのは数寄屋橋交差点の近くにある西銀座デパート。ここはかつて川の中で、戦後、高速道路建設のために埋め立てられた。そのデパートの中で「ブリッヂ」という埋め立て当初から入っている喫茶店を見つける。大正生まれの社長が今もまだ、お店に顔を出しているという。
そして、「バルビエYAMAMOTO」では、昔ながらの床屋の技を披露してもらう。高速道路伝いに、歩いていると、「銀座九丁目」という看板を発見。八丁目までしかない銀座の川を埋め立てて出来た場所だから「銀座九丁目」という名前をつけたというおでんやさんである。そこの店主は昔、川が流れていた頃ボートに乗って小学校に通って先生に怒られたのだという。
ついに、銀座の川の旅の最終地点。今も残る築地川へ到着。そこのボートクラブでボートに乗せていただき川の上から銀座を見てみる二人。川を辿って歩いた銀座の旅を振りかえる。

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鎌倉:昭和8年の地図で行く 鎌倉の老舗 再発見


リポーター:松本明子、マギー審司
昭和8年の地図で鎌倉散策をするのは松本明子とマギー審司。
鎌倉の町は、御用邸を中心に貴族や文豪の大別荘に御用聞きするお店が栄え発展してきた。“値段は関係ない!本当にいい物が欲しい”そんな鎌倉気質が数々の名店を育てて来た。
二人は由比ヶ浜商店街から鶴岡八幡に向かう人気の鎌倉ルートを散策。昔から残る隠れた老舗名店を見つけていく。長谷駅からスタートし、昔ながらの黒あん夫婦まんじゅうの「恵比寿屋菓子店」、裏面にたくさんある肉屋さんのうちのひとつ「宮代商店」、創業以来120年続く牛乳屋「芝崎牛乳店」などを見つける。「芝崎牛乳店」では、見せてもらった昔の絵葉書の中に、英語で書かれた外国人用のはがきもあり二人はびっくりする。
続いて訪れたのは「井上蒲鉾」。創業昭和6年の老舗蒲鉾店で、朝採れたての生の魚を使用し、昔ながらの製法で丁寧に作られている。昭和8年の頃の法被が残っていた。お昼は「うなぎ専門店 つるや」へ。注文を受けてからさばくので、出来上がるまで40分くらいの時間がかかる。このお店には昭和の文豪や女優さんが数多く訪れていた。昭和の偉人達が食べたうなぎを食べ、二人は大満足。
続いて、「誠信堂」という薬局に立ち寄る二人。薬局で売られているみみずを煎じたお茶を頂く。
それから二人は御用邸があったと思われる、跡地を散策。跡地は御成小学校になっており、小学校の門は御用邸の当時の雰囲気を残すものだった。
八幡宮に通じる道を歩いていると、地図に「清田モスリン」を発見。「モスリンって何?」疑問を持った二人は地図に書かれた場所へ行ってみる。
ようやく、ゴールの八幡宮到着。多くの店が御用聞きをやっていたという鎌倉の街は、良いもの作って売るという意識の高い街だった。

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函館:昭和8年 ハイカラな函館を巡る旅


リポーター:モト冬樹
昭和8年の地図で函館を旅するのはモト冬樹。
当時の函館は東日本随一の大都市。サケマス漁業を中心とした一大貿易で函館の町は東京に勝るとも劣らない勢いを見せていた。そして異国文化を反映させたグルメの数々や多くの女学校などが昭和8年の地図にはのこされていた。
しかしそんな函館の街は、翌昭和9年、大火に見舞われ、その殆どが消失してしまう。 モト冬樹は、そんな希少な昭和8年の函館を探して旅をする。 函館の港から旅はスタート。蟹工船に乗っていたという73歳の現役漁師と出会う。
昭和8年頃、最も隆盛を極めていた元町界隈を散策。異国情緒漂う街並み。「旧イギリス領事館」や「ハリストス正協会」などを眺めながら、モトは散策を続ける。
次に、発見したのが十字街・宝来町の行列のできる精肉屋「阿佐利」。明治34年創業の老舗の精肉店で、戦後から作り続けている人気のコロッケを試食する。「阿佐利」ではすき焼き店も営業。昭和の初期は海産問屋の旦那衆で賑わいを見せていたという。 もっと古いという「千秋庵」では、当時あたりまえのようにあった洋風文化の影響で、バターを使った煎餅「山親爺」が生まれた。
続いては、外国人たちが愛した「五島軒」を訪ねる。外国人が多く入り込んでいた函館で、ロシア料理のお店として展開していた。モトはロシア料理を堪能する。
歩き続けるうちに、あることに気づくモト。“女学校が多いのはなぜ?” 函館の市電に乗って、現在も残っている「遺愛女学院」へ。函館に女学校が多かった秘密に迫る。

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熱海:大正14年の地図でめぐる 湯の町熱海再発見の旅


リポーター:布施博
大正14年は熱海駅が開業した年。まさに熱海が温泉観光地として産声を上げた年である。
そんな時代の転換期の熱海を探して大正14年の地図で旅するのは布施博。
早速熱海の象徴である「金色夜叉」貫一お宮の像の前から旅はスタート。すでに、熱海の海岸線は埋め立てられており、当時の地図と見比べると一目瞭然。次に向かった熱海駅では、駅前の足湯・家康の湯で、地元の人に大正14年の熱海について話を伺う。熱海駅から歩くと、なにやら白い煙がモクモクとしているマンションを発見。そこは、地図の温泉マークの場所だった。現在は、温泉リゾートマンションが建っており、住民たちのみが入れる温泉がある。続いて布施が発見したのは、地元の人で知らない人はいないという、老舗温泉旅館の「古屋旅館」。そこには当時の貴重な資料の数々が残されていた。そこで布施は江戸時代からあるという清左衛門の湯に浸かる。
次に地図に書かれた「大弓」という場所に行くが、そこは現在「藪そば」というそば屋になっていた。実はこのおそば屋のご主人の祖父が「大弓」という昔ながらの弓を引いて射る遊び場をやっていたという。「藪そば」で昔ながらの木鉢でこねたそばとそばがきをいただいた布施は、地図に書かれた「大湯」を目指す。地図の場所には大湯間欠泉のモニュメントがあった。昔大湯を使って、日本初の温泉療養所・吸気館があったそうだ。
さらに、「日航亭 大湯」の看板を発見する。その日帰り温泉を訪れると、地元の人で365日この日帰り温泉にやってくるというおじさんに出会う。「日航亭 大湯」の泉質はとても大湯に似ていてすごく良いと熱く語る。

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大阪:昭和36年の地図でめぐる ディープな大阪食いだおれの旅


リポーター:山本文郎夫妻
大阪・通天閣界隈を散策するのは山本文郎ご夫婦。
二人は高度成長期真っ只中の昭和36年の地図で大阪の町を歩き、当時のサラリーマンたちを支えた下町グルメを見つけ出す。戦後に生まれた大阪B級グルメの数々は、まさにサラリーマンたちの元気の源であった。 まず山本夫妻は「通天閣」に上ることに。現在、通天閣は2代目で通天閣界隈はパリの街並みのように道路が整備されている。
続いて夫妻が訪れたのが「中華料理三好」。昭和31年、通天閣建設の年に生まれた主人が先代の開発した味を引き継いでいる。
さらに通天閣本通を進むと見えてきたのが「履物澤野(澤野工房)」。履物屋さんを営みつつ、奥はレコード会社というユニークな会社なのだ。 当時から変わらない美味しい食べ物があるということで、二人は「近江屋」へ。パン粉をつけないで揚げる昔ながらの牛の串カツを作り続けている。また、昭和30年代に流行ったという“シチューうどん”を求め、「あづま食堂」へ。当時高級レストランで出していたクリームシチューに憧れた主人が考案したもので、労働者のお客さんが多かったため、腹もちが良くなるようにうどんやそばを加えたという。
続いてどて焼きという名物が美味しいと評判の「八重勝」へ。78歳の2代目と48歳の3代目で切り盛りするお店は、一日中行列が途切れない。 昭和30年代という高度経済成長まっただ中の大阪を巡る旅。まさに、当時のパワフルな活気がそのまま残っていた旅だった。

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