ピーコ

ピーコ

1945年生まれ。高校を卒業後、横浜トヨペットに入社。電飾工場への転職を経て、1964年サンヨーレインコートに入社。24歳の時、シャンソン歌手のイブニングドレスが作りたいとの気持ちから、サンヨーレインコートを退職し文化服装学院のデザイン科に入学。26歳の時、弟・おすぎ経由で裏方としてドラマ衣装の制作を頼まれたのが きっかけで、1975年おすぎと共に「おすぎとピーコ」として芸能デビューを果たす。「辛口ピーコのファッションチェック」は、絶大な支持を集めた。



逆境
44歳の時、ガンの診断を受け、すぐにでも左目を摘出しなければ命にかかわると診断され、命をとるか目をとるかという究極の選択を迫られ、目の摘出を余儀なくされた。しかし逆境を乗り越え、目の摘出は自分の生き方を見つめ直す絶好の機会になったと語るピーコ。言葉通り、タレント・ファッション評論家としてはもちろん、片目を失ってから始めたシャンソンの評価も高く、現在はシャンソン歌手としてCD発売やコンサートなども行い、他分野に渡り活躍の場を広げている。



いっこく堂

いっこく堂

沖縄県で育ち高校卒業後に上京。
幼い頃からの夢であった役者の道を志すべく23歳の時に劇団民藝へ入団。しかし、満足な役をもらえないまま、年数だけが過ぎる毎日。
そして、29歳の時に劇団を休団して独学で腹話術を学び始める。
口を閉じた状態で声を出せるかに重きを置き、これまでの腹話術の常識を覆すいっこく堂流の腹話術を完成させます。現在は、日本はもとより世界各国で賞賛を受ける。



逆境
彼が中学時代に味わったのはイジメ。誰からも認められず、周囲から孤立する日々が続きました。これではいけないと高校に入ると、積極的に明るくつとめ、それが高じて、役者に興味を持つようになる。高校卒業後、役者を目指して上京。朝から晩まで稽古漬け。更に深夜までアルバイト。しかし頑張っても役者としては芽が出ず。周囲から認められない日々がまた続きました。
そんな時、人生を変える大きな転機が。それは大先輩からの、ある言葉でした。これにより、劇団をやめて腹話術師に転身。しかし、仲間たちからは冷ややかな視線が。また周りから理解されない日々が続きましたが独立から7年後に大ブレイク。これまでにない全く新しい腹話術を確立したのです。



佐伯チズ

佐伯チズ

京都の女子高を卒業したのち、大阪のミノルタカメラに電話交換手として入社。
美容学校、美容室勤務1967年24歳の時に、フランス化粧品メーカー ゲランに入社。1988年45歳の時に、クリスチャン・ディオールのインターナショナルトレーニングマネージャーに就任。
2003年に定年退職後、エステティック・サロン「サロン・ドール・マ・ボーテ」を開業。同年「佐伯チズの頼るな化粧品!」はベストセラーに。
2004年、自らプロデュースした総合美容施設「ビューティータワー」内にサロンを構える。2008年に銀座に自身のサロンを開業。



逆境
結婚し化粧品会社に務めて順風満帆だった結婚15年目の頃、突然夫がガンに倒れる。1年半の闘病生活を経て夫は亡くなる。 そのショックで1年近く自宅に閉じこもるようになり、肌はボロボロに。「それでは無くなった旦那さんが悲しむ」と友人に言われ自ら肌の手入れをして社会復帰。今では美のカリスマと呼ばれるまでになった。



三國清三

三國清三

1954年生まれ。中学卒業後札幌グランドホテルにて修行を開始。半年後中卒ながら正社員になる。1971年、札幌グランドホテル総料理長に紹介状を書いてもらい帝国ホテルへ。1973年、20歳で帝国ホテル料理長の推薦により、駐スイス日本大使館の料理長に就任。大使館勤務のかたわらフランス料理界で有名な 『ジラルデ』のフレディ・ジラルデに師事。1985年、東京・四谷に「オテル・ドゥ・ミクニを」開業。 現在は、料理人の育成や子どもの食育啓発活動に努め、日々料理界を牽引している。 



逆境
数々の経歴とはうらはらに、三國が料理人になったきっかけとは食いっぱぐれがないからという不純な動機のものだった。というのも三國は貧しい環境で育った為、食に対する意識も「食べる喜び」ではなく、今日1日を生きて行く為のエネルギー補給でしかないと捉えていたからである。そんな三國が出会った料理「ハンバーグ」。この出会いが三國の食への意識を変え、未来のカリスマを生む事となった。しかしその道は険しく様々な問題が三國に降りかかる。学歴、雑用、貧乏そんな三國を支えた言葉。それは「お金がなくても、学歴がなくても、志は平等」という母親の言葉だった。





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