悪ガキたちを頂点へ導いた”木内マジック” 『KKコンビ』擁するPL学園をねじ伏せた41年前の夏を回想

野球

2025.7.2


「令和でも語りたい昭和な人たち」#10 取手二高 1984年 甲子園優勝メンバー 柏葉勝己

2年ぶり2度目の高校野球酒場「球児園」。ここは高校野球強豪校のユニホームなどが飾られている、高校野球オタクが集まる居酒屋だ。

今宵のメンバーは1984年夏の甲子園で桑田、清原擁するPL学園を決勝で破り、茨城県に初めて真紅の優勝旗をもたらした取手二高ナイン。

あの熱い夏から41年が過ぎた。"悪ガキ"たちも、もうすぐ還暦を迎える。

もはや見る影もないほど変わり果て、巨腹を抱えながら"裏のエース"柏葉勝己が少し遅れて到着した。

「すいません、遅れました」。言葉とは裏腹に、悪びれる様子もない。「のびのび軍団」と呼ばれ、にぎやかな選手が多かった中で、当時からこの男は口数の多い方ではなかった。

「変わんねえな、こいつ」。当時のままのこの感じが、筆者には心地いい。柏葉とは8年ほど前に名刺管理アプリで繋がり、その後はLINEのやりとりを続け2年前に再会を果たした。

第66回全国高校野球 決勝 取手二高対PL学園

新聞社でアマ野球を担当していた時、担当する学校が初めて夏の甲子園の頂点に立った。それが取手二高だった。

正直、担当の筆者でさえ、優勝するとは思っていなかった。何しろ決勝の相手は、KKコンビが2年生の時のPL学園。

しかし、故木内幸雄監督のタクトでナインは縦横無尽に甲子園を駆け回った。最後は延長10回、5番捕手の中島彰一が桑田から決勝の3ランを放ってPL学園をねじ伏せた。

その場面をネット裏観客席から地下道に向かう階段で見ていた。試合終了後、すぐに取材に向かうためだ。

取手二高が4-3と1点をリードした9回裏、記者席からこの場所に移動した。

「本当に取手二高が優勝しちゃうのか」。これまで取材したネタを頭の中で整理し始めた瞬間、この回先頭の1番清水哲が筆者のまさに目の前でレフトへ同点アーチを叩き込んだ。

そして、続く2番松本にエース石田が死球を与える。明らかに動揺していた。

「逆転のPL」。

その言葉が筆者の頭に浮かんだ時、木内の"おっさん"が動いた。

ちょっと話はそれるが、当時の担当記者のほとんどが木内監督のことを"おっさん"と呼んでいた。

教育者という感じは皆無。自校グラウンドの練習の時にはユニホームやジャージを着用しておらず、普段着または作業着。たまにゴルフクラブを持っていることもあった。

53歳で月給は6万円。職業監督を自認していた。こんな"監督"は見たことがなかった。

ここから先、当時に戻って"おっさん"と呼ばせてもらうことをお許しいただきたい。

そしてこの当時、まだ"木内マジック"というフレーズは使われていなかった。筆者も記憶がない。

まさに、これが甲子園で見せた最初のマジックではなかったか。PL学園は3番の左打者鈴木。ここで石田をライトへ。そして変則左腕柏葉をベンチからマウンドに送った。左対左。ワンポイントリリーフだ。

この時の心境を柏葉に尋ねると「実はルーティンを飛ばしていて、肩を作ってなかったんです」と衝撃の答えが返ってきた。

柏葉がベンチで待機している場合、「肩を作れ」の指示をおっさんはほぼ出さない。

柏葉が試合の状況を見ながら、守りの時に肩を作っていた。「7回に4-1でリードして"このまま石田がいけちゃうのかな"と思ったりして、最後もう一回やんなきゃいけないルーティンをやんなかったのよ」と言って、ハイボールを口に運んだ。

「清水のホームランが出て、監督から"用意しろ"と言われて。"サクちゃん(控え捕手・桜井)行くよ"って声かけたら、"ミット、どっか行っちゃった"って。

そうこうしている間に石田が次の松本にデッドボール当てちゃった。"すぐ行け"って監督から言われて」と言うと、餃子に箸を伸ばす。それは初耳だ。

「だからマウンドの7球で仕上げたのよ。投球練習の7球で」。普段はいつでも行けるように肩を作っているのに、この決勝戦でまさかの事態となった。

しかし柏葉に焦りはなかった。「緊張する時間もなかった」(柏葉)し、突然の選手交代にはナインは慣れっこなのだ。

「ワンポイントというのはそれまで一度もなかったと思う」(柏葉)と初体験が甲子園決勝というのもビックリだが、おっさんは普段から選手交代を頻繁に行っていた。

選手の状態を見極め、その場面での最適な用兵をためらいなく実行する。その時点の最も"旬"な選手を起用するのが、"木内マジック"だと筆者は思っている。

この当時の強豪校は9人のレギュラーを固定して戦い抜くスタイルが主流であり、その采配は異端だった。

「よく突然代えられたりしたことがあったし、突然行かされることもあったな」と柏葉。

そこまで黙っていた控えでコーチ役を務めていた畔上知之が「県大会だって4番に代打とか普通だったよな。そんでいきなりスクイズとかね」と言って、生ビールをグイッと飲み干した。

9回裏同点の無死一塁。「左対左、必ずバントしてくるはず」。おっさんの読みは当たった。

柏葉は左腕を横手から振って2球目のスライダーをバントさせると、ホームベースの前で打球は止まった。

捕手中島が矢のような送球で二塁封殺。雨で試合開始が遅れ、グラウンドはまだぬかるんでいる部分があった。そんな状況も取手二高にはプラスにはたらいた。

「中島のあんないい送球は見たことない。それに雨が降ってなかったら間違いなくボールは止まってなかった」と柏葉。

「一度、冷静にさせたかった」(木内監督)という石田をライトから再びマウンドに戻し、柏葉をライトへ。

石田は清原、桑田を抑え、延長に持ち込むことに成功した。そして好送球で気をよくしていた中島が決勝3ランを左翼へぶち込んで、「木内のおっさんと悪ガキ達」の物語は完結した。


第66回全国高校野球選手権 決勝 取手二高対PL学園 取手二高の中島彰一が決勝の3点本塁打を放つ 投手=桑田真澄(c)SANKEI

おっさんは大会後すぐに常総学院に移籍。

その後は、常にレベルの高い選手がいる環境を最大限に生かす采配で、甲子園出場、優勝を重ねていく。

そして、その変幻自在の用兵は「木内マジック」と呼ばれるようになった。

複数投手を絶妙なタイミングでつなぎ、野手はベンチの全員が戦力。2ケタの背番号がグラウンドを駆け回る。

まさに現在の高校野球の主流の戦い方ではないか。おっさんは40年前にその戦い方を確立していたことになる。

2020年11月24日、おっさんは89歳で天国へ旅立った。

"木内マジック"のDNAは、二塁手佐々木(郁文館監督、前常総学院監督)、三塁手小菅(土浦日大監督)、左翼手下田(取手二監督)、捕手中島(日本製鉄鹿島総監督)ら指導者になった優勝メンバーに受け継がれている。

エースだった石田は、41歳の若さで直腸がんのため急逝した。

「おっさんと石田、天国でもがちゃがちゃやってんのかな」。そんなことを思いながら柏葉たちと一緒に、球児園名物「PLチャーハン」を平らげて散会した。


茨城県勢初の優勝を決め、宿舎で大喜びの木内幸男監督(手前右)ら取手二ナイン (c)SANKEI

今年も球児の熱い夏はすでに始まっている。


テレ東リアライブ編集部 E.T(新聞、テレビでスポーツ現場30年のロートル)