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【あらすじ】

2005年3月13日、九代目・林家正蔵を襲名する林家こぶ平が、上野から浅草へ敢行した『お練り』を一目見ようと東京台東区内は14万5千人の歓声でどよめいていた。母・かよ子は、そんな息子の一世一代の晴れ姿を、息をつめて見守っていた。晴れがましいというよりは、心配で心配でただひたすら無事に滞りなく・・・と、亡き夫、林家三平に縋る思いで・・・。

昭和20年10月末、学徒動員の海老名泰一郎(林家三平)は、生まれ育った東京根岸に戻り、母・と再会。20歳だった。
ある日、いつものように銭湯へ行き父・七代目・林家正蔵の背中を流していた時、ポツリと云われた。「泰一郎、お前、噺をやってみないか」背中を流していた手が思わず止まった。泰一郎が大きく頷くと、 余程嬉しかったのだろう。父は満面笑みを浮かべていた。
かくして、前座見習いとしての生活が始まった。根が甘いからと、『林家甘蔵』と貰った芸名は、初高座へ上がる時には、父親の前名、柳家三平からとった『林家三平』と名乗る事となった。
だが、思いもかけない不幸が三平を襲った。


昭和24年、父・正蔵が55歳の若さで急逝。さらに父の死から一月も経たぬうちに、妹・千恵子が後を追うように亡くなったのだ。
三平はかつて、父の弟子であった月の家圓鏡(後の橘家圓蔵)の門下となる。そんな三平を可愛いがってくれたのは、当時人気絶頂の三遊亭歌笑だった。「いつか自分も歌笑兄さんのように、客を腹の底から笑わせ、楽しませる芸人になりたい・・・」。しかし、その心優しい先輩が、ある日突然アメリカ兵のジープにはねられ、死んだ。
又一人、大事な人が逝ってしまった・・・三平は、えぐられる痛みの中で嗚咽した。
そんな時、突然、林家正蔵の名跡を一代限りという条件で借りたいと、蝶花楼馬楽がやってきた。父・正蔵の一周忌も済んでいなかったが、今の三平母子に抵抗する術はなく、結局、名跡はとりあげられた。悔しかった。情け無かった。駆け出しの前座の身が悲しかった。三平は母と固く誓い合った。必ず林家正蔵の名跡は取り返してみせると。


昭和27年4月10日、三平は三遊亭金馬師匠のところで預かっているかよ子と結婚した。
新婚旅行から戻ったかよ子は、歌から「三平は噺家としてこれから出世していく身。当分の間、妹と言うことにしておきます」と言い渡された。つまり、かよ子は隠し妻、三平を「お兄さん」と呼ぶ事になった。戸惑う事も多かったが、かよ子は今の穏やかな幸せが嬉しかった。
しかし、暮らしは貧しいまま・・・。三平が盲腸で入院した時も、高額な入院費を支払うために、住んでいる土地の半分を売ってしまった。米代にも窮してすいとんを啜る毎日だった。
病後、今ひとつ体調が回復せず、悶々と寝たり起きたりの毎日を送っていた三平は、ふと気付いた。「そうだ! 誰も見たことのない新しいハナシをつくろう!」


三平のしどろもどろのおかしさに、客は抱腹絶倒、人気は沸騰していった。ラジオやテレビのスイッチをひねると、毎日どこかの局から「三平です。どーもスィマセン」「もォ、大変なんスから」という声が聞こえ、三平が出演する公開録画は、女性ファンが殺到した。
仕事の多忙を理由に、だんだん三平の帰りが遅くなり、そのうち朝帰りもするようになった。どうやら女遊びをしているらしい。これも芸の肥やし、と自分に言い聞かせていたかよ子だが、内心は爆発寸前だった。


昭和33年10月、林家三平は待望の「真打ち」に昇進した。しかし、かよ子と歌は、相も変わらず内職に追われる日々。三平は稼ぎを女遊びや付き合いにつぎ込んでいたのだ。
真打ち昇進以後、三平はますます人気が出て、多忙につぐ多忙の毎日だった。昭和35年正月には、テレビ、ラジオ合わせて三が日で百八回出演、除夜の鐘と同じ数、と驚かれる記録を打ち立てた。


まさに「昭和の爆笑王」の名を欲しいままに、日本中を席巻した林家三平。
2男2女に恵まれた父親としての優しい顔や、誰よりも努力してネタ作りに没頭する真剣な顔。
初恋の人・柳田ヨシ子との再会や、弟子・林家こん平の入門。
そして、脳内出血に倒れ、再起不能と言われながらも、壮絶なリハビリを繰り返す毎日。
奇跡の復活!そして・・・。


2005年3月21日、林家三平悲願の九代目林家正蔵を、長男こぶ平が襲名。噺家三代の夢が、遂に叶った瞬間であった。晴れた浅草の空の上から、三平が、あの笑顔で見つめていた。