伝説のプロボウラー並木恵美子 唯一の1000万円プレーヤーが令和でも語りたい想い

「令和でも語りたい昭和な人たち」#4 ~ボウリング並木恵美子プロ~
毎週金曜日、「オークラボウル」(東京・世田谷区)に並木プロがいると聞いて、足を運んだ。
「ほらほら、ちゃんとスパットを見て」。いつもの元気な声が響いている。
昼過ぎから行われているボウリング教室。この日は15人ほどの「生徒」へアドバイスを送っていた。
遠くは佐賀から来ている人もいる、という。さすがの人気ぶりだ。
20代、30代の中には「プロボウラー」の存在を知らない人がいると聞くが、1970年代前半の「ボウリングブーム」はそれはそれはものすごかった。
ボウリング場のゲーム待ち、2時間は当たり前。
テレビのゴールデンタイムには各局にボウリング番組が並び、当時無敵だった「巨人戦」と視聴率を争った。
その中心にいたのが「プロボウラー」。筆者はその当時、小学校の高学年。もう夢中だった。
中山律子さん、須田開代子さん(故人)らの人気者の前にいつも立ちはだかったのが、並木さんだ。
「憎らしいほど強い」という言葉は、当時の並木さんのためにあったと言っても過言ではない。
それほど強かった。ブラウン管の中にいる並木さんの眼光は鋭く、負ける気がしなかった。「ヒール」と呼ばれてもいた。
「ご無沙汰してます。"ヒール"の並木さん」とあいさつすると、「何で私がヒールなのよ」と笑顔で返してくれたが、目は笑っていなかった。
「ヒール」というワードは不快な思い出として、今も並木さんの胸に深く刻まれている。
1969年、第1回プロテストにアベレージ186(4日間36ゲームを投げ180がカットライン)の全体5位で合格。
並木さんは当時20歳で最年少合格だった。ボウリングを始めてわずか10か月。
受験前のアベレージは「160ぐらいだった」と言うから、その時から勝負強さを発揮していたのかもしれない。
並木さんはボウリング競技の経験もないままプロとなった異例の存在だった。
「私はボウリングができればいいの。純粋なんですよ。だからプロになってからはボウリングを一生懸命追及してね。
何もわからないし、今できることをやるしかないわけですよ。勝たないことには始まらないってこと。
でもそれで勝ってもマスコミはちゃんと扱ってくれない。私は悪役なの。否定されてる訳なのよ」。
当時のマスコミは、人気者の中山、須田、石井の「花のトリオ」を中心に取り上げることが基本路線だった。
その対立軸として"ヒール役"に並木さんが据えられた形だ。
ただ並木さんは他のプロが誰一人足を運ばない中、次開催のトーナメント会場の下見兼練習を欠かさず、当時ではまだ珍しかったウエートトレを行っていた。
大半のプロが人気急上昇で営業にいそしんでいても、並木さんはプロとしての本文を貫いた。
「そういう評価との戦いだから。もう世間と戦っているようなもんですよ。
それは負けないでしょ。情熱はもう誰にも負けないし、練習量も負けない。
私は稼ぎたかった訳じゃない。ボウリングが好きだから投げたい。
トーナメントに出るのなら、勝ちたい。相手を認めさせるためには勝つしかない。
すぐ"天才"とか言う人たちもいたけど、そのためにどんだけのことをやってんの、ってことですよ」。
並木さんは71年に15勝をマークし、獲得賞金が1015万4000円となった。
男子も含めプロボウリング界初の「1000万プレーヤー」となり、プロボウラーの地位をさらに向上させた。
一方で、周囲の妬み、嫉妬などもあり、孤立の度合いはどんどん深まっていった。
並木さんに「ボウラーの中に友達とか仲間はいなかったんですか?」と聞いてみたら一喝された。
「あなた何言ってんのよ。私はね、トーナメントに"おともだち"を作りに行ってんじゃないのよ。
"並木だけには負けないで"みたいな、女子プロの中にはそういう雰囲気があったしね」。
ただ、ボウリングに真摯に向き合っていただけ。
だから並木さんには"ライバル"はいなかった、という。
「特に中山さん、須田さんには負けたくないという気持ちはあったんですか?」
と水を向けると、「そういうのはなかったですね。ただ試合に出れば勝ちたい。
プロの世界ですから。勝った者が強いのよ。私はオンリーワンだから」と並木さんは当然といった顔をして、強いプロ意識を強調した。
筆者が並木さんと直接会って初めて話をしたのは、1999年5月と記憶している。
20年近く続いていたレギュラー番組「スターボウリング」が終わり、新レギュラー番組「エキサイトボウリング」を立ち上げた時だった。
それまでの営業色の強いスタイルから「スポーツボウリング」に力点を置き、番組独自の女子プロ8人によるトーナメントを開催した時、並木さんにも参加してもらった。
他のプロの方達はこちらの言う通りに投球するだけだったが、並木さんは違った。
「こういうことしていいかしら」、「もっとこうしてみたら」といろいろアイデアを出してくれた。
番組をよくすると同時に、「ボウリングを見る人に楽しんでもらいたい」という気持ちがあふれ出ていた。
「勝負師並木」のイメージが強かっただけに、そのギャップに驚いたことを覚えている。
場所をとある焼き鳥屋に移しても、ボウリングの話は止まらない。
「私によそってもらって食べられるなんて思ってなかったでしょ」。
並木さんが笑顔でそう言いながら筆者に釜めしをよそってくれたあたりから、今後のボウリング界の話になっていった。
並木さんの"夢"は「ボウリングブームの再来」。
いつかあの一大ブームを呼び戻したいと思っている。
そういうことをはっきり口にするのは、かつてのスターボウラーの中で並木さんくらいのものだ。
そのスタンスは初めて会った時と何も変わっていない。
「業界がいい時に手を打っていれば、もう少し違う形だったかもしれないけど、ね。
いろいろな意味で強烈なリーダーシップがある人がいないと、大きく変えることは難しいと思います。
ただ私はボウリングが大好きなので私にできることはやっていきたい。
いい方向に行くなら何でも協力しますよ。これからもずっと」。
最終型(2005年モデル?)セリカの助手席に乗せてもらい、最寄り駅まで送っていただいた。
女性の年齢を表記するのは気が引けるが、御年75歳。まだまだどころか、とっても若い。
並木恵美子プロ。ライセンスナンバー5の女子プロ1期生。
通算タイトル36勝の永久シード権者。ボウリング界のために、いつまでも「オンリーワン」でいてもらいたい。
テレ東リアライブ編集部 E.T(新聞、テレビでスポーツ現場経験30年のロートル)