小久保裕紀監督が甲子園の夜空に舞った ホークスを5年ぶりの日本一へ導いたリベンジ物語

胴上げされるソフトバンク・小久保裕紀監督(c)SANKEI
「令和でも語りたい昭和な人たち」#12 小久保裕紀
きっと、"野球ロス"に陥っている人も多いことだろう。日米ともに野球シーズンが終わった。
メジャーは、ドジャースが第7戦までもつれ込む激闘の末にブルージェイズを破り、チーム初の世界一連覇を達成。阪神―ソフトバンクの日本シリーズは、ソフトバンクが初戦を落とした後に4連勝し、5年ぶり12度目の日本一の座に就いた。
言うまでもないが、ワールドシリーズの方が圧倒的に盛り上がっていた。大谷、山本、佐々木の3人しか日本人はいないのに、何だか日本代表を応援するような感じで、日本中がドジャースを後押ししていた。
ただ筆者の目には甲子園の夜空に9度舞った、小久保監督の姿が焼き付いている。「この男はやっぱり、たいしたもんだわ」。改めてそんな思いにかられるシーンだった。
小久保裕紀選手と初めて会ったのは1993年3月、青学大4年春のシーズン開幕直前だった。筆者は、第2次長嶋政権1年目の巨人担当がメイン業務だったが、92年バルセロナ五輪に学生でただ一人選ばれた男が気になって仕方がなかった。
銅メダル獲得に貢献した小久保選手は、当然ドラフトでも上位指名が確実視されており、旧知の河原井監督(当時)に連絡して密着取材の許可をお願いすると、いい返事が返ってきた。
「小久保ほどキャプテンシーを持っている選手は初めてだし、バッティングもよく飛ばすよ。いいところに目をつけたな。本人がよければ、問題ないよ」。
当時、横浜・綱島にあった合宿所で初めて会った時、すぐに期待は"確信"に変わった。取材者への応対、言葉使い、話し方、内容。どれも素晴らしかった。
何より、雰囲気を持っている。グラウンドで打撃練習を見学すると、細身に見える体なのにパワフルなスイングから大飛球が次々と外野の奥深くへ発射された。
その後、筆者のこの確信は、プロ野球での選手、指導者での成功にまで広がっていく。
取材を重ね、ある時「1日完全密着」をお願いしたことがあった。小久保選手は快諾してくれたものの、「遅くなりそうだから、適当に切り上げて帰ってもらっていいですよ」と言ってきた。
「大丈夫、最後まで付き合うから」と返したが、結局"まさか"の展開となり、筆者にとって忘れられない1日となった。
夕方に終了した全体練習までは問題なかったのだが、午後6時半頃から始まった個人練習で、こちらが想定していない状況となった。鏡張りの「素振りルーム」でバットを振るというので、中に入れてもらった。
少し薄暗い部屋で、映像的にもいい雰囲気である。様々なアングルから撮影を行い、1時間ほどで狙いのカットの撮影は終了した。
"1時間か、まあ長くて1時間半くらいだろう"と勝手に思っていたら大間違いだった。9時になっても終わらず、10時も回った。撮影スタッフの帰宅の問題もあるし、筆者がそわそわし始めた時に、小久保選手が「遠慮しないでいいですよ。僕は大丈夫ですから」と気を使ってくれた。
「何時ごろまでやるの?」と尋ねると、「まだもう少し」と言うので、スタッフだけを帰して、筆者一人が残ることにした。
でも、その後もなかなか終わらない。小久保選手がバットを置いたのは、12時を回った頃だった。ブンブン続けて振るというよりは、投手、球種、コースなどを想定してスイングしていた。とはいえ、約5時間半だ。
その前に全体練習もこなしている。汗の量も半端ない。なかなかこういう場面にすべて付き合う機会はないだけに、正直、圧倒された。
「こういう練習、いつもやっているの?」と聞くと、「いつもではないですけど、別に普通です。特別なことじゃないです」という答えが返ってきた。
これを"普通"と言える人間だけが、"極みの世界"に行けるんだなと思いながら、高校時代の筆者がいかに練習をさぼることしか考えないダメ球児だったことをついポロっと話してしまった。
すると小久保選手は不思議そうな顔をして、「何でやらなかったんですか?」。予期せぬ160キロのド直球を投げられて、戸惑った。
何と答えたのか覚えていない。小久保選手にとっては、野球が好きで野球がうまくなりたいから野球部にいるのに、ちゃんと練習しない奴は不思議でしかないのだろう。

小久保裕紀監督(c)SANKEI
以来、交流は続き、今はショートメールでのやりとりがメイン。節目にメールを送ると小久保監督が返信をくれるというのがパターンだ。
最後に直接会って話したのは、昨年の宮崎キャンプ。立ち話で5分ほど会話することができた。耳に残っている言葉がある。
「僕は憎まれ役になる覚悟はできています。チームが勝つためには、どう思われようと構わないと思ってます」。
きっぱりと言い切った言葉を聞きながら、「変わんねえな」と思ったのと同時にすごく成長したようにも感じた。
20年に指導者として復帰してから、一軍ヘッドコーチ、二軍監督を歴任し、王者復活を期待されての監督就任。指導者としての経験値が、この男をさらに成長させているように感じられた。
就任1年目は見事に期待にこたえ、2位と13.5ゲーム差の独走でパ・リーグを制し、CSファイナルでは日本ハムを寄せつけず、日本シリーズでも3位から勝ち上がったDeNAに対し、敵地で2連勝と圧倒的な力と勢いをみせた。
ところが、ここからまさかの4連敗で日本一を逃した。その時送った「お疲れ様メール」には、「何か一つ足りないということです」と返信があった。
「あけおめメール」には、「今年こそは日本一になります!」という力強いコメントが記されている。開幕前日は「長いシーズン、最後までやり抜きます。どっしりとブレない姿でチームを引っ張ります!」というメッセージが届いた。
しかし25年シーズンは開幕からスチュワート・ジュニア、栗原、近藤、柳田、周東ら主力が、ケガで戦線離脱。苦しい状況を代役でしのごうとするも、さらに今宮も戦列を離れるなど事態は好転せず、ついに借金は7まで膨らみ、最下位争いから抜け出せない状態が続いた。
その時のメッセージは「主力がもどってきても、ポジションを譲らない選手が出てくればうれしいです」。愚痴っぽい言葉は一切なく、前を向いていたので安心したことを覚えている。
柳町、野村勇、川瀬らの攻撃陣に加え、投手陣も前田純、松本晴らが活躍、不調オスナに代わって杉山が新守護神に台頭するなど、代役陣が踏ん張って交流戦V。
そこからは確実に白星を重ねていき、徐々にけが人も復帰する中、ベテラン中村晃の活躍などもあり、一気に連覇へと突っ走った。CSファイナルでは日本ハムに大苦戦したものの、何とか勝ち上がりリベンジの舞台へ駒を進めた。
「去年は、残念でしたね、という言葉をかけられることが多かったですね。リーグ優勝もなかった感じになっていました。日本シリーズで負けるとは、こういうことなんだ、と思いました」。
様々な媒体で伝えられている小久保監督の言葉。「日本一」の誓いを実現するべく、指揮官は変わっていた。
まず第4戦の先発が、CSファイナル第4戦に先発した大関ではなく大津だったこと。大関はCS第4戦で2回1/3で4失点。負け投手になったとはいえ、レギュラーシーズンでは13勝5敗、防御率1.66で最高勝率のタイトルに輝いている。
小久保監督は、実績、格よりも状態の良さで大津を選択。まさに「勝つためなら、どう思われようが構わない」の言葉通りの用兵だ。
その大津が5回まで無失点と期待に応える力投を披露。そして2点リードの6回2死二塁で大津に代えて"切り札"近藤を代打に送った。大津の球数は59球。まだ余裕があった。
しかし小久保監督は「もう1点取りに行くことにした」と決断し、見事に近藤が右前タイムリー。結果、この1点が大きくものを言ってソフトバンクが王手をかけた。
第5戦は第1戦で先発したエース有原を登板間隔を詰めた中4日で投入した。これも勝ちを取りに行く積極的な采配だ。そしてこの第5戦でも、結果には結びつかなかったものの、2点リードの7回2死一・二塁で首位打者・牧原大に代打・近藤を送る勝負手を打っている。
先に先に動いて流れを呼び込み、主導権を握る。「カチッと決めすぎ、細かくやり過ぎた」という昨年の反省から、自身の"勝負勘"を信じる采配で活路を見出したといえる。
「何か一つ足りない」と言っていた最後のピースを自らはめ込み、リベンジ物語を完結させた。
優勝後すぐに「日本一おめでとうメール」を送ると、翌朝、返信があった。「心願成就を達成できました。来シーズンも頑張ります」。気持ちは早くも来季に向いていた。
いかにも小久保監督らしいメッセージだ。まだ54歳。令和の名将になりそうだ。32年前の「素振り部屋」のシーンを思い出しながら改めてそう思った。
テレ東リアライブ編集部 E.T(新聞、テレビでスポーツ現場30年のロートル)