<令和でも語りたい昭和な人たち>#15 プロゴルフの第一人者”ジャンボ”尾崎将司

ゴルフ

2025.12.26

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    尾崎将司 (c)SANKEI

    クリスマスイブに届いた訃報に、驚きを隠せなかった。"ジャンボ"こと尾崎将司さんが、S状結腸がんのため死去。78歳だった。

    6月3日には"ミスタープロ野球"長嶋茂雄氏が89歳で亡くなった。プロ野球、プロゴルフを牽引してきた巨星が、2025年にこの世を去った。時代の終わりを感じずにはいられなかった。

    最近、現役としてのプレーを見る機会はなかったが、"ジャンボ"のニックネームはよく耳にしていた。

    原英莉花、笹生優花、西郷真央、佐久間朱莉らが優勝すると、必ず出てくるのがジャンボ尾崎の名前。そう、彼女たちはみんな、ジャンボ門下生だ。

    佐久間朱莉が賞金女王となった報告をするためにジャンボ邸を訪れると、「おめでとう」の後に「それでメジャーは取ってないんだっけ?」とジャンボらしい一言を浴びせる様子などを耳にしていただけに、勝手に元気だと思い込んでいた。

    まさか1年も自宅で闘病生活をしていたなんて思ってもいなかったから、本当にショックだった。

    いつも尾崎さんのことを勝手に"ジャンボ"と呼んでいたので、ここでも"ジャンボさん"と呼ばせてもらうことをお許しいただきたい。ジャンボさんというと、あの暑い夏を思い出す。

    筆者とジャンボさんとの接点は、たった一度しかない。新聞社勤務時代、遊軍記者だった1990年。日々、野球中心で動いている中、真夏のある日に一般スポーツのゴルフ担当デスクに呼び出された。

    「突然だけど、10日後に始まる全米プロゴルフの取材に行ってくれ。航空券、ホテルはおさえてある。取材パスの申請もしてあるので、現地で受け取れ。カメラマンは別で合流する。ま、頼むわ」。

    は?10日後に海外出張?それもゴルフ?えっ?どういうこと?

    頭の中は「?」だらけだったが、とにかく言われた通りに渡米。一人で行く海外は初体験だ。英語はめちゃくちゃ怪しい。

    目指すは、ミズーリ州カンザスシティ郊外にあるショール・クリーク・ゴルフコース。取材者の変更が事務局に伝わっておらず、取材パスの受け渡しに3時間もかかる悪戦苦闘のスタート。

    バーミングハムという町にあるホテルを探し当て、ようやく落ちつけたことを覚えている。

    翌日、コースでは練習ラウンドが行われていた。日本からの出場選手は、ジャンボさん、青木功プロ、尾崎直道プロの3人だったと記憶している。

    終了後に日本メディアによる囲み取材が行われた。そこで初めてジャンボさんに社名と名前を伝え、「普段は野球を担当しています。すいません、ゴルフ取材は初めてです。よろしくお願いします」と言うと、「そうか、よろしく」と返してくれた。

    渡米前、ゴルフ担当デスクから「ジャンボは日本ではあんな感じだけど、海外に行くとよくしゃべるから心配すんな」と言われていた。

    日本では圧倒的な強さを誇ったジャンボさんも、海外では結果が出せなかったため「内弁慶」と呼ばれていたことは、筆者ももちろん知っていた。

    内容はまったく覚えていないが、その時のジャンボさんが饒舌だったことは確かな記憶として残っている。

    予選ラウンドが始まると、デスクの指示でジャンボさんの組につくことになった。当時は携帯電話もパソコンもない時代で、1ホールごとに打数、状況を公衆電話から送っていた。

    ホール間に公衆電話がほぼ1、2台は設置されていて、ジャンボさんがホールアウトすると公衆電話までダッシュして日本の本社デスクにコレクトコールを入れた。

    「ジャンボ、1番。ティーショット、フェアウエー右270ヤード、セカンドはピン右7メートル、寄らず入らずのパー」。

    それだけ言うと、すぐに次ホールのセカンド地点までまたダッシュ。ジャンボさんのティーショットを待ち受ける。時差があるので、締め切りギリギリまでこの作業を繰り返す。当然、最終ホールまでの結果を入れることはできない。

    そんな状況の中、あるホールでジャンボさんが右のラフにティーショットを打ち込んできた。

    ジャンボさんの組は予選ということもあり、ギャラリーの数はそれほど多くはなかった。ラフの芝はもしゃもしゃで、真上から見ないとボールが見つからないほどの密集度だ。

    その時、ジャンボさんの組についていた日本メディアは筆者一人だけ。ジャンボさんは歩きながら筆者を指さして、ボールの場所を尋ねてきた。

    筆者はおおよその場所を指して、ボールの位置を知らせた。しばらく探してボールが見つかると、ジャンボさんは筆者を見ないで右手を上げ、感謝の意を表してくれた。

    完全アウェーな環境に置かれている筆者と内弁慶のジャンボさんの無言の"会話"。勝手な思い込みではあるが、日本を代表するプロゴルファー・ジャンボさんと一緒に戦っている気がした。記者としては失格なんだろうが......。

    ジャンボさん、そして青木功プロは予選を通過できなかった。決勝ラウンドでは弟の尾崎直道プロのプレーを追いかけ、初めてのゴルフ取材は終わった(優勝はウエイン・グラディ=豪=)。

    その後、ジャンボさんと直接会う機会もないまま、訃報に接することになった。

    たった一度だけのジャンボさんとの交わり。だから、余計に強烈な思い出として残っている。あのショール・クリークの暑い夏。いつまでも忘れない。合掌。

    テレ東リアライブ編集部 E.T(新聞、テレビでスポーツ現場30年のロートル)