W杯で「サッカー版ChatGPT」が解禁されたサッカー界で、岡崎慎司と総合物流企業が挑む、”サッカー×AI”
2026.6.29
【ドイツ6部リーグ・FC バサラマインツで監督を務める岡崎慎司】
北米の地で、世界中を熱狂させている「2026 FIFAワールドカップ」。日本代表は初戦で強豪オランダと激しい死闘の末に引き分け、続く2戦目ではチュニジアに4-0と快勝。
いよいよ決勝トーナメント進出をかけ、運命のスウェーデン戦に挑む―。日本中が固唾をのんで見守る中、ピッチの裏側ではかつてない規模のテクノロジー革命が進行している。
今大会、FIFAは出場全48チームに対し、「サッカー版ChatGPT」とも呼ばれるクラウド型AIアシスタント「FIFA AI Pro」を無償提供した。数千試合分のデータを完璧に記憶したこのAIは、「フランスの守備を崩す最善の方法は?」といった複雑な戦術的アプローチに対し、動画や3Dアバターを用いて数秒で最適解を弾き出す。
これにより、分析部門を持たない小国チームの最低ラインが引き上げられ、情報格差を縮小する画期的な試みとして機能している。しかし、全チームに提供されたことで最終的な優位性は「AIの情報を人間がどう解釈し、行動に移すか」という人間の判断によるところが大きい。
このようにサッカー界でデータとテクノロジーの重要性が極限まで高まる中、ドイツの地で、ピッチ上のイノベーションを全く異なるフィールドへ応用する革新的なプロジェクトが動き出している。
それが、日本の大手総合物流企業・鴻池運輸株式会社と、サッカー元日本代表FW岡崎慎司氏による「Basara Innovation Loop」だ。
【岡崎慎司と鴻池運輸が取り組むプロジェクト「Basara Innovation Loop」】
Basara Innovation Loopは岡崎慎司が指揮するバサラマインツが世界で戦える選手の育成のために、スポンサー企業である鴻池運輸が世界で戦える企業に成長するために、サッカーチームと物流企業が互いに学び合い、発展を目指すプロジェクトのことだ。
そして、その二つを結びつけるものがAIである。
一見すると無関係に思える「サッカー」と「物流」だが、現場が抱える本質的なタスクは似ている部分がある。
ピッチ上では「空いているスペース」「選手の疲労」「得点のチャンス」「失点のピンチ」といったシグナルが、倉庫内では「安全リスク」「混雑・滞留」「遅延の兆し」といったシグナルが常に発せられている。
互いに「現場が発する膨大なシグナルからノイズを取り除き、いかに早く文脈を読み取り、最適解を実行するか」という共通の問いに対し、両業界の最先端の知見を掛け合わせようという試みである。
【鴻池運輸株式会社 取締役副社長執行役員 鴻池忠嗣さん】
なぜ「単なるスポンサー」を超えたのか? 共有する"世界で戦う"覚悟
そもそも、なぜ日本の総合物流会社が、岡崎慎司が監督を務めるドイツのバサラマインツと組み、単なるユニフォームスポンサーの域を超えた取り組みを行っているのか。その根底には、両者が強く共有する「世界で戦う覚悟」にある。
物流業界において、グローバル市場の中心は欧州の巨大企業が占めている。鴻池運輸の鴻池忠嗣氏は「自分たちが世界で戦えるようになるためには、あえて厳しい環境に自らをさらし、そこで生き残らなければならないという強い野心がある。そのために「世界で戦えるツールを持たなければならない」と語る。
一方の岡崎慎司もまた、サッカーの激戦区であるドイツに身を置き、「世界で戦える選手の育成」という途方もない挑戦を続けている。その岡崎慎司の「不可能だと思っていても前向きに取り組み、実現させようとする姿勢」に鴻池運輸は惹かれたという。
そして、両者の「最先端のノウハウを吸収し、世界と戦う」というベクトルの完全に一致したことが単なるスポンサー契約の域を超えた"ともに世界で戦う"という信念のもと、新たな取り組みに挑戦している。
そして、鴻池運輸がこのプロジェクトにおいて最先端のAI技術を投入できている背景には、同社が「世界で戦う」ために打った大きな布石がある。
鴻池運輸は、欧州における最先端の物流ソリューションと高度なノウハウを自社に取り入れるため、ドイツの有力な物流IT企業である「EPGグループ」と合弁会社を設立した。このパートナーシップにより、独自のAIシステムを用いて、「サッカー×物流」の実現を目指そうとしている。
鴻池運輸の現場にはEPG社が開発した独自のAIシステム「AURA(オーラ)」を用いており、その核となる映像分析機能が瞬時に全映像を把握し、管理者が「どこにボトルネックがある?」と質問するだけで、該当箇所を瞬時に抽出する高い実力を持っている。
【ブンデスリーガ・TSGホッフェンハイム スタッフ アダム・ビーヴァンさん】
世界トップのITクラブ「ホッフェンハイム」が参画する本気度
そして今回のプロジェクトには、欧州サッカー界で最もIT化が進んだクラブの一つとして知られるドイツのTSG 1899ホッフェンハイムのスタッフも加わっている。
ホッフェンハイムはこちらも同じく世界的ビジネスソフトウェア企業であるSAPがスポンサーとしてバックアップを務め、当時独自の方法でサッカー界にイノベーションを起こした。
ホッフェンハイムがピッチ内外で導入しているのが、「SAP Sports One」と呼ばれる最先端のスポーツデータソリューションだ。同クラブはこのシステムをフル活用し、運動能力に優れた才能を持つ選手の発掘、獲得、そして育成を組織的に進めている。
トレーニング中や試合中、選手のユニフォームに埋め込まれたセンサーが、ボールとの接触、プレイ時間、心拍数といったフィールド上でのあらゆる動きを秒単位で計測。
その膨大な情報がリアルタイムでコーチ陣に伝わるため、チームは迅速に選手を評価し、勝利の戦略へと導く戦術的洞察を即座に見出すことができる。
物流からサッカーへの応用:見えないスペースと認知の可視化
倉庫における「通路の障害物」を見つける技術は、サッカーの試合映像から「守備のギャップ」や「相手の裏が空いたスペース」を見つける戦術分析へと直結する。
さらに、この映像解析AIをスキルトレーニングに応用する画期的なアイデアも進んでいる。ホッフェンハイムのスポーツ科学スタッフは、高額なバイオメカニクス設備を使わずとも、AIカメラで「選手のファーストタッチの質」や「パスを受ける前の首振り(スキャン)の回数」を計測し、選手の認知能力を自動評価する可能性に強い期待を寄せている。
AIを「1人の分析コーチ」として用いる仕組みである。
サッカーから物流への応用:「疲労の科学」が物流現場をアスリートのように管理する
一方、サッカー界から物流業界へ持ち込まれるのが「疲労の科学」と「コンディショニング」の概念だ。ホッフェンハイムなどのトップクラブでは、選手の心拍数、睡眠レベル、ストレス状況といった生体データを常に計測している。
同クラブのスポーツ科学の知見では、大気汚染が認知能力を約10%低下させる「見えない敵」であることや、夜間の試合に向けて移動バスの中で選手にブルーライトを浴びせ、体内時計(概日リズム)を調整するなどの徹底した対策が行われている。
物流業界で持ち込まれるのが、労働環境の最適化である。
物流業界の関係者は「倉庫も一つの生き物(オーガニズム)である」と語る通り、倉庫の作業員もアスリートと同様に疲労やストレスを抱え、それが蓄積すると判断力が鈍り、重大な事故につながる。
サッカーにおける「怪我をする前に身体のサインを見る」というアプローチを倉庫に応用し、システムが作業員の疲労の偏りを検知して「休憩の提案」を行うことで、労働環境を改善し事故を未然に防ぐことができる。
【Basara Innovation Loopに元プロサッカー選手の立場で話す岡崎慎司】
AI時代に岡崎慎司が語る「考えるメンタリティ」と「ベースメント」
ワールドカップに導入されたFIFA AI Proが示すように、ツールがどれほど進化しても、それをどう解釈し行動するかは人間に委ねられている。
どれほどAIが優れた予測を出しても、AI自身に「目標」や「モチベーション」は存在しない。岡崎慎司は、「AIから「この選手は休ませるべきだ」というアラートが出たとしても、それはスタッフの一人としての意見に過ぎず、最終的には対話を通じて本人の意志を加味し、人間の責任で決断を下さなければならない」と語っている。
自身のキャリアを振り返り、「自分は決して足が速い選手ではなかったからこそ、どうやってディフェンダーの背後を突くか、常に『考えるメンタリティ』を持っていた」と語る。指導者となった彼が、データ以上に選手の動きで注視しているのが「リアクション(取り組み方)」だ。
「退屈な練習でも100%の力を出し切れるかという『姿勢』が何よりも重要です。失敗した時でも他人のせいにせず、自分自身に矢印を向ける姿勢こそが選手の成長を分ける」
テクノロジーがどれだけ進化しても、現場のシステム導入には反発が伴う。変革を推し進めるには、まずは変化に前向きな味方を見つけ、小さな成功を示して徐々に進歩していくことが大事だという。
岡崎慎司
「将来、岡崎慎司さんが監督を務める日本代表がワールドカップで優勝する、その夢が実現した時、バサラマインツを応援している人たちの喜びは計り知れないものになるでしょう」
鴻池忠嗣氏がそう熱を込めて語るように、両者の取り組みは単なるスポンサーという垣根を超えたものとなっている。サッカーと物流、この異業種が交差する「タクティカル・イノベーション」は、AIという強力な知性と、人間の泥臭いモチベーションが融合した、世界でも類を見ない挑戦を行っているのだ。