バスケットボール 仙台89ERS社長・志村雄彦、今という苦しい時代にあってスポーツにできること

そこに秘められたドラマをあなたはまだ知らない
十年前のあの日、東北を中心に起きた大地震は1万5千人以上の命と数知れない人々の日常を奪っていった。復興への道はいまだ途上。終わっていない。
スポーツはその助けになり得るのか。それが知りたくて、彼と彼のチームを追い始めた。宮城県のプロバスケットボールチーム、仙台89ERS(エイティナイナーズ)社長・志村雄彦。
かつてはチームの看板選手。ミスターナイナーズと呼ばれた志村が監督に就任したのは去年5月のこと。妻は地元テレビ局のアナウンサー。一男一女、二人の子を持つ38歳。
仙台を本拠地とする89ERSだが震災以来、県内各地でホームゲームを行ない、地域との触れ合いを続けている。今年もコロナ禍の中、南三陸町での公式戦が近づいていた。コロナ禍で外出自粛のムードがある中、観客はどれだけ来てくれるのか。
感染対策をしながらの転戦には苦労が尽きない。予算のやりくりも頭が痛い。だがそれでもバスケットボールを通じて人の輪を拡げたいとの願いがある。
「ミスターナイナーズ」
志村は慶応大学出身。慶応大学時代のつてを頼れば引退後、他の勤め先を探すこともできたはず。だが志村はそれを選ばず、苦労を覚悟で社長を引き受けた。それは運命だったのかもしれない。
【動画】バスケットボール・仙台89ERS 志村雄彦社長 東北への想いに迫る/Humanウォッチャー
生まれも育ちも仙台市。10歳でバスケを始め、高校では全国優勝も経験した。2008年、25歳で89ERSに入団。160センチという小柄な体格ながら、闘志溢れるプレーで中心選手へと成長する。「ミスターナイナーズ」という呼び名が定着した頃、それは起きた。
東日本大震災。
それがその後の苦難と奇跡の入口だった。試合も練習もできなくなったチームは地震発生から3日後に解散を決める。所属選手は移籍することになり志村は沖縄のチームに移る。
だがチーム愛は貫いた。89ERSを象徴する89番をつけてプレーしようと志村が提案し、ほぼ全員がそれに応じたのだ。
苦しい時代にスポーツにできること
被災地にプロスポーツは必要なのか。重い問い掛けに答えたのは仙台市民だった。チーム存続を訴える署名活動が始まる。集まった署名は2万以上。支援金も集まり、スポンサーも現れた。
こうしてまだ外に瓦礫の山が残る2011年10月、半年あまりの時を経て仙台89ERSは活動を再開した。あの日聞いた歓声は忘れない。バスケにできることがはっきりわかった。その信念を今も持ち続けている。
南三陸町での公式戦当日。試合開始の4時間前に会場に入りし、最後のチェックとスタッフへの念押し。客入りは心配をよそに上々の入りだった。観客738人とほぼ満員。試合はエイティナイナーズが接戦をものにした。
今という苦しい時代にあってスポーツにできることは何か。その答えはきっとこの会場の中にある。心をひとつにすること。仲間や相手を尊ぶこと。普段、忘れかけている人と人の繋がりの大切さをスポーツは教えてくれる。
南三陸町での試合の翌日。仙台市内に志村の姿があった。3月11日、この一帯にキンモクセイを植樹するという。キンモクセイの黄色は89ERSのチームカラー。地域をつなぎ、未来へ繋ぐ。その理念はこれからも変わらない。
植樹するキンモクセイはBリーグが開幕する10月頃に花を咲かせる。